「北朝鮮こそ理想の社会!」
そう信じて北朝鮮帰還事業で夫の祖国に旅立った日本人妻や、旅客機を乗っ取ってまで北朝鮮に向かったよど号ハイジャック犯。
今の若者なら、「ばっかじゃなかろうか?」と思うだろうが、当時の若者は共産主義社会に夢とロマンを抱いていた。

当時の若者、いわゆる「団塊の世代」の人達には、今もリベラル派が多い。
そして、年代が下がるに従って右寄りになってきている。
それは、"楽しい未来を描けない「息苦しい思想」になっている" からだという。↓

 

 

<抜粋>

" 格差拡大などで新自由主義や行き過ぎたグローバリゼーションへの反省や気候変動問題の取り組みが世界のメインテーマになり、日本でも斎藤幸平・大阪市立大准教授の『人新世の「資本論」』が話題を呼び、英国のアーロン・バスターニの『ラグジュアリー・コミュニズム』など、新しいタイプの左派経済思想が相次いで登場している。
 しかし、斎藤氏やトマ・ピケティ氏が個別に注目されることはあっても、彼らの議論をもとにして、資本主義の将来やオルタナティブをめぐる議論が全体に盛り上がっている様子はない。
 少なくとも日本では左派政党や運動に取り入れられて、大きなうねりになりそうな雰囲気もない。
 どうして、左派の思想があまり魅力的に見えなくなったのか。
 最初に答えを言えば、現代の左派思想は、禁欲主義的な雰囲気をあまりに強く醸し出していて、特に若者にとっては、楽しい未来を描けない「息苦しい思想」になっているのではないか。
 1970年代くらいまで、左派のメインストリームだったマルクス主義的左派は、計画経済によって資本主義経済の限界を乗り越え、社会全体としてより豊かになり、全ての人が平等にその恩恵を享受でき、労働が苦役ではなく、享楽になる共産主義社会を描いていた。

・・・・・(左派思想の変遷は省略、リンク元参照)

 グレーバーに典型的に見られるように、現代の左翼思想の論者の多くは、自己の利益追求を最優先して競争に明け暮れるのではなく、人間同士が利害抜きで―互いに負債を抱えさせることなく―自然と助け合う関係を模索している。
 競争が成長につながると考え、新しい経済成長の方向性を示すよりは、協同作業をする中でいろんな財を自発的にシェアする生き方(=コミュニズム)を描き、それがうまく行った実例――例えば、ウォール街占領運動の際の参加者同士の助け合い――を示すことに力を入れる。
 そうした、「コミュニズム」への呼びかけは、もはや将来の見込みが一切立たず、資本主義経済の中で生きていくことに絶望している人、つまり失うものがない人にとっては、希望に思えるかもしれない。
 だが現実は、多くの人が企業や役所など資本主義を前提にした組織に属し、わずかながらでも、競争的努力が報われる(かもしれない)環境に生きている。
 そうした人にとっては、自分の本性を変えろ、と言われているように聞こえる。
 一見、呼びかけの内容はソフトだが、マルクス主義的左派などに見られた、(ブルジョワ的価値観に染まって生きてきたことへの)悔い改めと、回心を迫るよう強引さを背後に隠している感じがする。

 現代の左翼思想には、英国のポール・メイソン(1960年~)やアーロン・バスターニ(1984年~)のように、資本主義の後にやってくるのは、かつての社会主義国家のような強圧的な社会ではないことを暗示する議論もある。
 メイソンの『ポスト・キャピタリズム』(2015年)やバスターニの『ラグジュアリー・コミュニズム』(2019年)は、昨今、議論になっている、AIの進歩で人間の仕事がなくなるという懸念を逆手に取った論法だ。
 人間が働かなくても、AIが生産活動を受け持って生産性を向上させるとともに、それだけでなく、再生可能エネルギーの効率的な活用による気候変動問題の改善や、ナノテクロジーによる健康管理などもやってくれるので、人間の労働や生活の多くの作業をAIに任せて、人間は自らを解放して人間らしい生活をしようというわけだ。
 AIがなんでもするようになると、労働時間や労働生産性によって富の配分(収入)を決める現在のシステムは機能しなくなる。だから、全ての人に基本的な生活ができるBI(ベーシックインカム)を支給し、芸術や学問などの創造的な仕事に取組みたい人だけが、“労働の成果”への対価が支払われる仕事に従事するようにすればよいというのだ。

・・・・・

 メイソンらの議論は、労働はAIなどにやらせて人間らしい生活をと、楽園のような心地よさを醸し出す。だが半面、働きたくても働かせてもらえない状況が来るので覚悟しなさい、と諭しているようにも取れる。
 だが、BIは保障するが、特別の才能がない限り、それ以上の収入は望めないとなると、きわだった才能があるわけではないが、地道に努力すれば、そこそこ出世ができて給料も増えると言われ、「会社人間」になるよう教育されてきた人間には憂鬱だろう。
 ごく少数のクリエーティブな職を激しく競争してでも得たいと思う人も少なくなかろう。
 そうした無駄な頑張りや憂鬱さは、人間らしくないので「克服」しろ、ということなのだろうか。
 その一方、斎藤幸平氏(1987年~)のように、「人新世」と言われる地球環境危機の深刻さを訴え、これまで環境破壊を主導してきた西側先進国の人間は、物質面で生活水準を切り下げ、地球温暖化の進行を遅らせる努力をすべきだと主張する論客もいる。
 資本主義を逆手にとることを主張しない彼のスタンスは、むしろ「進歩」を疑問視するフランクフルト学派などに近いように思える。

 いずれにしても、こうした現代の左派の思想に通底するのは、自己中心的な欲望に従って競争しようとする体質を改め、隣人や自然と調和した慎ましい生き方を推奨しているように見えることだ。
 こうした考え方や価値観は、すでに現役を退いて経済成長と縁がなくなっている人や、あまりに物を欲しがらない“今時の若者”にとっては心地よいかもしれない。
 だが、現に競争社会の中にいる人間には、そのレースを降りて平和に暮らせ、と言われているようで、あまり楽しくないのではないか。
 その辺に、左派思想が今一つ盛り上がらない理由があるように思う。"

<抜粋終わり>

 

"こうした考え方や価値観は、すでに現役を退いて経済成長と縁がなくなっている人や、あまりに物を欲しがらない“今時の若者”にとっては心地よいかもしれない"

 

現役後、都会を離れ、「隣人や自然と調和した慎ましい生き方」は、テレビでもよく報じられ、最近のトレンドにもなっている。

しかし、現役当時はストレスを抱え愚痴ばかりこぼしていたくせに、長年の生活習慣をズバッと切り替えられない人も多い。

また仕事の緊張感から解放された途端に、病気したり老け込んだりする人も少なくない。

 

あまりに物を欲しがらない“今時の若者”と言えど、禁欲の生活が一生続くとしたら、それに耐えられるだろうか?

ゲームの世界だけで、競い、闘い、挑戦し、夢を追う、果たしてそれで幸福な人生と言えるだろうか?

 

AIが人間から仕事を奪う時代は間違いなく来るだろう。

いづれベーシックインカムは導入されるだろう。

それでも、人間同士良い意味で競い合い、切磋琢磨して、より良い世界を目指さなければならない。

そのプロセスを楽しむことこそが、人間にとっての最高の幸せではないだろうか?