和紙や和雑貨に思いを巡らせていると、

必ず、京都という町に触れることになる。

いつも脱線する事が多い当ブログだが、

今回も、又、和紙や和雑貨から離れてしまうことをお赦し頂きたい。

 

さて。日本人なら、殆どの人は、京都を数回は訪れているのではないだろうか。

有名な寺社仏閣を訪れる人、四条河原町をぶらつく人、祇園で遊ぶ人、

人それぞれのライフスタイルによって、色々な京都の思い出があるだろう。

 

自分が最初に京都に触れたのは、中学生の頃にテレビでやっていた「新撰組血風録」

という時代劇の中だった。副長土方歳三を栗塚旭というニヒルな雰囲気の俳優が主演だった。

つい先ごろ、この時代劇の原作である「新撰組血風録」を読み返してみた。

司馬遼太郎の1964年の作品である。全部で15の短編からなる新撰組の話である。

一つ一つの独立した短編が、幕末の殺戮集団の個々の人間性を描いている名作である。

もし、読んでおられない方がいらしたら、是非、お読みすることを奨めさせていただく。

司馬遼太郎といえば坂本竜馬を書いた「竜馬がゆく」が有名だが、

竜馬と正反対に位置した無頼の徒の集まりにも、作者は、愛情を持って描いている。

この「新撰組血風録」の中でも、私が好きな話は「沖田総司の恋」である。

新撰組を嫌いな人間でも、沖田総司だけは好きという人も多いのではないだろうか。

この幕末史上最高ともいえる剣の使い手は、若くして結核(労咳)で亡くなるのだが、

その沖田は、今でいえばシャイな人間だったようだ。その彼は、女遊びをしたこともない。

池田屋の変で喀血した後に、隊に黙って、医者を訪れる。そして、そこの娘を好きになる。

その娘は、毎月八の日に、清水の坂下にある音羽の滝に、茶を点てる水を汲みにくる。

沖田は、京都の市井の人が、自分たち新撰組のことを嫌いぬいているのを知っている。

だから、医者にも、その娘にも自分が新撰組の隊士であることは告げていなかった。

そっと遠くから眺めているだけで良いと思っていた。

ある日、自分も八の日に、音羽の滝に来ていますと、恋の告白のようなものをして

しばらくしてから、自分が新撰組の隊士であることが分かってしまい、会えなくなる。

 

この短編の最後を、作者の司馬遼太郎はこう結んでいる。失礼を敢えて承知で紹介させてください。

 

 

「その夕、清水山内音羽の滝へ沖田はひとりで行った。

掛茶屋はすでに、戸をおろしている。

陽が落ちた。

沖田はなお、滝のそばにいた。一夜待っても思うひとは来ないだろう。

きょうは、八の日ではない。それでも、沖田は滝のそばにしゃがんでいた。

しぶきが、肩をぬらした。

本堂のあたりから日没偈の読経がきこえ、やがて懸崖の上の奥の院に灯明がともるころになっても、

沖田はじっとかがみ、ときどき細い滝に手をのばしては、水を皮膚に感じてみた。

あの娘も、こういうそぶりをした。

山内を回る僧の提灯が近づいてきて、沖田の横にツト足をとめた。

「ごくろうさまでございます」

と、僧は声をかけて去った。

滝には世参りの信徒がくる。そういうひとりだとおもったのだろう。」

 

司馬遼太郎が描いたこの文章に、千年の王城の地であった京都の本質を感じることができる。

町のはずれの寺の境内にお茶を点てる水を汲みにいく。

その滝を僧侶が見回りにくる。

奥の院では、灯明がつき、きっと読経もされている。

八のつく日には、市民が水を汲みにくる。

 

この風景は、京都の原風景のような気がする。

そこは、関東者の暴力集団の新撰組では、絶対に入り込めない。

文化というのは、こういう風にして作られてきたのだろう。

それは、単に皇室、貴族、高僧がいるのとは違う。

 

 

清水寺も三年坂もよく行くが、次回は音羽の滝を見に行こう。

そういう魅力が京都にはある。

だからこそ、京都は今でも、「和」の文化の中心として輝いているのではないだろうか?