若槻内閣が退陣後、1931年(昭和6年)12月13日に犬養内閣が成立します。組閣後すぐに、大蔵大臣になった高橋是清は金解禁を停止します。そして、お札を刷ってデフレ対策をできるようにします。インフレ期待が高まり、株価円安になります。長期のデフレ不況から脱出するような政策を打ちます。この後、金融緩和をして、政府の国債を日銀に押し付けるということをします。これは、今の経済学では禁句になっていますが、政府の借金を日銀に押し付けたら、その借金はチャラになるということなのです。その後、犬養内閣は総選挙を行い、酷い経済政策をしていた民政党は大敗し、政友会は圧勝します。あれ?これ、どこかで聞いた話ではないでしょうか?お札を刷って、インフレ期待が高まり、株価円安になり、金融緩和をする。そして、その後の選挙で圧勝。これってアベノミクスですよね。ご存知のようにアベノミクスではデフレ脱却はできませんでした。それはなぜかというと、見事にデフレ脱却をした高橋是清がやった政策をやらなかったからです。では、高橋是清は何をやったかというと、積極財政を行いました。つまり、言い方は悪いですが、バラマキ政策です。積極的に政府が支出することにより、経済が活性化するという手法です。当時は国防費を大幅に増額しました。まあ、満洲事変をしているのですから、戦費はいくらあっても足りません。この高橋是清の積極財政により、日本の経済は昭和大不況と、世界恐慌のダブルパンチから、抜け出すことに成功します。なんと、世界恐慌を食らった国々の中で、最速で経済を立て直してしまったのです。ちなみに2位はアドルフ・ヒトラー率いるナチスドイツです。それでも、高橋是清の功績は世界に誇れる大偉業なのです。その後、2年で完全に経済は回復してしまいます。あとは、東北の飢餓をどうするかでしたが、それが叶わずにとんでもない事件に巻き込まれてしまうのですが、それは後日に。ということで、高橋是清蔵相のおかげで、日本経済は立ち直ることになります。内政は一応、持ち直したというところです。

 

 総選挙が始まる前に大事件が起きます。1932年1月8日。昭和天皇の暗殺未遂事件が勃発します。桜田門事件と言います。その後、総選挙では政友会が圧勝し、犬養毅が首相の座を安泰にするのですが…実は以前、昭和天皇が皇太子の時に暗殺未遂事件が起きます。虎の門事件です。この事件を受けて、山本権兵衛内閣は退陣するのですが、退陣を促すように煽っていたのが犬養毅でした。まさか、自分が首相になった時に同様の事件が起きるとは思っていなかったのでしょう。当然、言っていいることとやっていることが違う!と国会で追及されます。その時、犬養毅はどうしたのか?犬養毅は答弁の中で、『修練による心境の変化』と言ってごまかします。これは今でもダメですが、こういう手のひら返しはこの後もいろいろな人がやりだします。まあ、ポジショントークの全盛時といったところでしょう。この時代から今に至るまで、このポジショントークは常に席巻しますから、よくある話ではあるのですが、ここに人間性の貧しさを感じますね。道徳観はこの当時からすでに失われているということです。いやはやこのポジショントークは何とかならないものですかね…

 

 さて、この桜田門事件が発端で、上海事変が起きます。よく言われるのが、満洲事変から目をそらすために行われたといわれていますが、違います。悪いのは中華民国なのです。宣戦布告されても仕方がないことをやらかしています。桜田門事件が起きた時に、中華民国の機関誌『民国日報』において、『惜しい!』(殺されれば良かったのに)ということを言ってしまいます。これに激高したのが日本政府です。不敬ということですし、当時はこのことだけでも宣戦布告の立派な理由になります。いまだに上海でも居留民は拉致監禁、暴力、殺人事件は絶えません。ここで立ち上がったのは陸軍の荒木貞夫陸相と海軍の大角岑生海相でした。1月28日に上海事変が起きます。珍しいことに、陸軍と海軍が共同戦線をすることは凄く珍しいことなのです。なぜかというと、予算をめぐる争いで、陸軍と海軍は反目しているどころか、仮想敵国ですから、仲が悪いも甚だしい感じです。しかし、当時のこの陸海相はそういういきさつもありながらも、ここは共同戦線を組むという、立派な人たちでした。不敬に対する制裁を陸海軍で落とし前をつけるという行動でした。苦戦する中で、何とか優勢に戦い続けます。そういう中で、満洲でも事件が起きます。

 

 1932年3月1日、満洲国建国です。関東軍の情報が縦割りなので、外務省には情報が入ってきません。そういう中で、国際連盟は非難ごうごう・・・外務省は立ち往生します。国際連盟がなぜ、こういう立場になったのかというと、ドイツやソ連に領土を脅かされている小国がこういう行為は自分達にも適用され合法化するのはまずいという意見があったからです。小国は散々日本に助けられているのに、日本も大国と同じことをするのか!ということで許せないという感情が爆発しました。ドイツやソ連の悪行の防波堤になっていた日本を叩くという、自分の首を自分で絞めるという行為に出たのです。小国は小国で自国を優先しますから、2,3手先の展開は見えてなかったのでしょうが…結局、ヨーロッパの日本を非難した小国は防波堤を失い、ソ連やドイツに食いものにされます。で、一方、中華民国は『日本に侵略された!』とプロパガンダを世界に拡散します。中華民国が散々悪いことをしているのにお前が言うか!という感じですが、今でも日本の教科書ではこの中華民国のプロパガンダを正しい歴史と記載されています。頭が痛い…満洲国では清朝の末裔の溥儀が皇帝になります。こいつもとんでもない輩なのですが、それは後のお話。こういう外交上の混乱を何とかしようと日本政府は頑張ります。

 

 それは当時の外務大臣、吉澤謙吉という外相です。外交官当時は英語があまりにもできなくて、ディベートにならず、通訳をつけましょうか?と言われるほど無能な外交官でした。しかし、日本に戻り、犬養毅首相の娘婿ということで、外相になります。ところが、この人、昭和元年から終戦までの外相の中で一番優秀でした。なんと、上海事変を終わらせて、1932年5月5日に停戦協定を結ぶことに成功します。力づくで抑え込みました。大火事にはならずにボヤで鎮火させたのです。これは凄いことです。さて、吉澤謙佶外相は満洲国も何とかしようとした矢先に大事件がこの10日後に起きてしまいます。5.15事件です。この事件でますます日本はおかしな方向に進むことになってしまいます。これは何をやっているの?という感じです。というのも、この時代、政治家に愛想をつかした国民は居留民を助けている軍人に正義のヒーローを託していました。政治家は全く信用できない、不信の塊です。これを救ってくれるのは軍人しかいない!と世論は思っていたのです。それが如実に分かる事件でもあります。それが一体、どんな方向に進むのか、それは、また次回に。