最近観たドラマで時系列的にお話しようと思います。テレビドラマ『不適切にも程がある』は春に放映されたドラマで、非常に関心が高く、評価も高い作品でした。で、ネットフリックスをザッピングした時に、ちょっと気になったので、1話だけ観ることに…評判が良いのはしっていましたが、やはり自分の目で見ないと。ドラマとの相性もありますし。ということで、1話だけ観たのですが、面白かったです。次に次にという感じでした。僕は頭を使うドラマが好きなのですが、この『不適切にも程がある』は違う頭の使い方をしていました。推理はという点では必要ないのですが、どれだけ気がつくか、どれだけわかっているかという細かい設定を探して見つける面白さがこのドラマにはありました。昭和の設定では僕はリアルタイムに状況を観ていましたし、その時代から比べると2024年はだいぶ様変わりしているという時代の変化をまざまざと思い知らされました。特に現代はコンプラ状況が酷くて、このドラマではそういうコンプラ状態を笑いにしている、コメディーにしているというのが凄く痛快でした。結局はどっちの時代でも大変だというオチなのですが、それはなかなか考えさせられる、深いテーマも含んでいました。それ自体も面白かったですし、このドラマは異質ですが、斬新です。こういう切り口が凄く面白いですね。

 

 まず良かったのがキャスト陣です。特に、安倍サダオ、河合優実、吉田羊は素晴らしい。あとは古田新太の若い時と2024年での変わりようがシニカルで面白いですね。若い時と年を取るとこうなるというのを見せてくれました。河合優実の演じる、小川順子役は当時、こう言う女性いた!って感じで、違和感がないところが凄い。スケ番風なのに、意外に押しがないところが奥ゆかしい。上手いチューニングだと思いましたし、芝居も素晴らしい。出すぎて無いところが絶妙でした。あとは吉田羊。社会学者で堅そうな女性をやらせたら、滅茶苦茶ハマりますね。そういう中で、2024年にしばらく戻ってこないという面白さもありました。このコメディー、映画『バックトゥーザフューチャー』をモデルにしてますが、滅茶苦茶いじってます。しかも、物語のセリフの中で、それが引用されてますから、何でもアリです。面白かったのは、実在の固有名詞を使って、それがギャグになっているという点です。三原じゅん子が2024年には政治家になっているということに昭和の人達はショックを受けていましたし、スマホはやはり異質なものなのですね。便利になって現在の人は気がつかないのですが、言われてみると、驚くべき進歩ですしね。さらに、このコメディーは突き抜けてます。散々、キョンキョンをいじっていたのに、当の本人が登場するという…小泉今日子が2024年の設定で登場し、『キョンキョンだけど、キョンキョンじゃない!』というギャグが成立しています。これを受け入れて、この壮大なコメディーに自ら参加している小泉今日子は本当に素晴らしい。本人が出てくるとは思っていなかったので、驚きました。さすが、突き抜けている、中途半端なコメディー作品ではないと思いましたね。

 

 宮藤官九郎はこの作品を全ての人に受け入れて欲しいと思って作っていないところが素晴らしいと思いました。わかる人にはわかる、不快な人は見なければい良いということをふるいにかけています。それがわかるのが、なぜかミュージカルが入っているのです。しかも唐突に。やらないのかい!というギャグもありました。ミュージカルを入れることで、苦々しく思っている心の狭い人は観るのを止めるきっかけになるのです。こういうのが好きではないという言い訳も用意されています。そこが憎いですね。心の狭い人が視聴者の中にはいて、けしからん!というクレームが出るのを想定して、そういう人が離脱しやすいようなきっかけを作っているのです。わかる人がわかれば良いという思想が反映していて、思い切ったことができるという感じでしょう。そこが観ていて痛快でしたね。このドラマというか、このコメディーのオチはどうなるのかと思ったら、そういう展開にするのか?でした。けして小川先生の個人的なこと、保身のことには全く触れないオチが好感をもてました。しかも、タイムスリップで2024年にいったことと、その先の未来に行くことは好奇心でしかありませんから、1986年に生きていた人たちの好奇心旺盛な姿勢というモノは現代では忘れてしまいそうなことなのかもしれないと思いましたね。何話でもイケそうな展開ではありましたが、観ていて痛快でした。これだけ伏線回収をしていない、やりっ放しのドラマですが、そこは良いかというように思ってしまうのもそこにストーリーは重点に置いていないということでもありますね。本当に面白いコメディーでした。しかも、皮肉が過ぎますよね。現代のコンプラ社会をここまで笑いに昇華するのですから、本気でやっている人にとっては迷惑でしょうが、このドラマがウケるということはやはり、少し間違っているのではないかという思いがたくさんの人が持っていることだと思うのです。そういう代弁者がいても良いと僕は思っていましたが、そういう意味ではこのドラマは大成功だったのではないかと思いますね。

 

 この作品で一番言いたかったことというのは、ミュージカルで誤魔化そうとしていましたが、『寛容』ということでしょう。『寛容』であることは、1986年でも2024年でも変わらない大事なことなのです。『寛容』であること、『人を思いやる気持ち』ということが1986年でも現代の2024年でもどこか欠けていると僕は思っています。2024年はうわべでは多様性とか、言ってますが、結局のところ、異物は排除するという思考はここかしこで見受けられます。異物を排除するという行動の原点は自分に都合の悪いことを言うヤツは排除するということですし、自分に都合の良いことしか受け入れないというクソみたいな理念で動いている人がやたら多いということです。つまり、人間が、人として小さいのです。それが、社会の上の方にたくさんいるのが本当におかしな現象です。企業のトップの経営陣のマインドはほとんどがそういう感じです。そういう輩たちがコンプライアンスだの、企業の社会的責任とか言っているのですから、ギャグにしか僕には思えませんね。そういうのには僕はうんざりしているのですが、どの時代でも『寛容』ということが無くなっている、忘れ去られていることからこういう事態になっても、矛盾だらけの社会が続くのだと思うのです。このドラマの中でも、どの時代も生きるのは大変と言っているのはわかる気がしますね。あとは、情熱ですね。なぜ、小川先生が2024年でも受け入れられたのは本音でどんどんぶつかる、熱のある人物だったからです。この姿勢がウケたのです。ですが、1986年の頃は熱のある、情熱的な人を笑うのがオシャレでした。クールでスマートに生きることが理想とされて、トレンドでした。そういう理想が具現化され、2024年には若者はクールで賢くなってしまいました。ですから、熱のある人、情熱のある人がウケるのです。ここは大事な点です。本物は熱のある人の中に存在しますが、その熱は本気であるからこそ出てくる熱量です。本気になれない人はどうなるかは知りませんが、本気になって行動することは笑われるべきことではありません。2024年ではそういう人が生き残るのだと僕は考えています。クールでスマートな代表としての村上春樹は今の時代ではバカにされる存在だと僕は思いますね。まあ、そういう信者は一定数いますから、それはそれで、どうつじつまを合わせるのかといったところですが、少なくても、自分と向き合わない限りは自分というモノの答えは見いだせない気はしています。とはいえ、そういう気づきをえられるような、それでいて笑えるドラマでしたから、『不適切にもほどがある』というドラマは傑作だと僕は思っています。