フランスの歴史を再開します。

 

 時代は1868年、もはやフランスの外交官、ロッシュが肩入れしてた旧幕府軍への掃討戦と化していた戊辰戦争のさなかに、ロッシュは更迭されました。フランス帰国後は外交官を引退します。なお、なお、軍事顧問団は本国フランスより、解散命令を受けていましたが、ジュール・ブリュネ大尉らはフランス軍隊を捨てて、榎本武揚とともに五稜郭まで一緒に戦いました。映画『ラストサムライ』のモデルとなった人物です。映画『ラストサムライ』はくだらない映画でしたから、どうでも良いのですが、当の、ブリュネの話をします。史実のジュール・ブリュネの経歴です。ブリュネは日本に来る前は、メキシコ戦争に従軍していました。本国からの帰還命令を無視して箱館戦争に参加したのは軍紀違反なので、軍法会議にかけられます。国際問題にもなっていましたし。しかし、箱館に向かう前に残した手紙が新聞で公開され、『祖国のために、私の仲間たちと共に戦います!』との内容が感動を呼び、赦免されました。最初は中部フランスのシャテルロー兵器工場の副長でしたが、ちょうど普仏戦争が勃発したので現役復帰して、本職の砲兵として戦います。セダンの戦いでは、ナポレオン三世が捕虜になり、フランスの敗戦が確定します。ブリュネも捕虜になりました。若い頃のブリュネは、3回連続負け戦に参戦しています。解放後は、パリコミューンという暴動を鎮圧する側で戦いました。どのあとは陸軍で順調に出世を重ねていきます。陸軍大臣副官、駐墺大使館附武官補佐官、一時フランス本国に戻った後で、駐伊大使館附武官、さらにフランスでは師団長、大臣官房長を務めています。日本からの留学生の世話もしてくれたようで、日清戦争に際しては、勲章をもらっています。榎本武揚の推挙があったとか。やたらと日本に縁がある人でした。

 

 通説

 

 フランス革命以来の混乱は、第三共和政により安定を取り戻した。

 

 こういう通説を見たの、一度や二度ではありません。

 確かに1789年から1872年まで、『王政 ➡ 共和政 ➡ 帝政 ➡ 王政(ブルボン家正統王政) ➡ 王政(オルレアン家) ➡ 共和政 ➡ 帝政 』 と、6度の政治体制変更を繰り返しています。10年に1回、革命が起きている感覚ですが、これは大きなものだけです。政変を入れると無数です。だからといって、第三共和政がそんなに立派なのか?

 

 時計の針を1870年普仏戦争に戻します。プロシア陸軍をヨーロッパ最強にまで鍛え上げたビスマルクは、満を持してフランスに喧嘩を売ります。あの手この手で引きずり出したのですが、ナポレオン3世はいいようにやられて、本人は捕縛され、パリも攻略され、そして帝政も崩壊しました。残った政治家と官僚たちで暫定政府を組織し、ビスマルクと和平交渉を行います。問題はここからです。フランス人からしたら、『誰のせいで負けたんだ?』です。敗戦責任の追求です。こうした怒り狂った気運に乗じて、権力を握ろうとする悪いヤツらも出てきます。大革命以来、フランスは『暴力で勝てば、権力を握れる国』です。このときに、共和主義者が武装蜂起しました。彼等はパリコミューンと名乗りました。直訳すると『パリ自治会』です。パリ自治会の連中は、暫定政府が結んだドイツとの和平に対して反対し、徹底抗戦を主張します。感情的にはわかるのですが、無理に決まっています。フランス軍が壊滅し、ヨーロッパ最強のプロシア軍に、市民の武装蜂起だけで、どうやって戦うのか?しかし、えてしてこういう輩はアジテーションだけは一人前です。フランス人の感情に訴えかけます。続々とパリコミューンには武器を持った市民が押し寄せます。『プロシアに降伏してたまるか!』と叫びながら。市民を扇動した幹部の本音は、彼等を使って暫定政府を打倒し、自分たちが権力を握ることです。そうはさせじと暫定政府も鎮圧に動き出し、フランス人同士の血で血を洗う抗争が始まりました。断っておきますが、『血で血を洗う』は、比喩ではありません。プロシア軍がパリを包囲し見守るなか、暫定政府軍とパリコミューンが壮絶な殺し合いを続けました。パリコミューンに好意的な歴史家が『72日間の夢』と名付けた殺し合いです。パリコミューンの死者3万人、暫定政府側は千人と言われています。持っている武器が違い過ぎました。最後の1週間、セーヌ川が真っ赤に染まりました。死体を片っ端からセーヌ川に投げ込んだので、水の色が真っ赤になったのです。死者は、日本の戊辰戦争の両軍の死者に西南の役の両軍の死者を足しても、まだ足りないぐらいなほどです。幕末動乱が西洋史家に『無血革命』と評価される理由です。パリの観光名所といえば凱旋門ですが、この時の弾痕がいまだに残っています。

 

 まさに『血の1週間』を、たまたまフランスに留学していた西園寺公望が目撃しています。西園寺公望はのちに首相を二度務め、最後の元老となる人物です。それまでフランスかぶれで啓蒙思想に憧れていたのですが、狂気を目の前で見て、己の浅はかさを悔いています。そして、帰国後は『日本で革命を言うヤツは全員四条河原でさらし首だ!』と絶叫します。明治史では『中江兆民は東洋のルソーと呼ばれた』とか、『板垣退助はフランス型の憲法政治を目指した』と書かれることが多いのですが、そう書いている人が第三共和政について何もわかっていないので困ったものです。中江兆民は日本人としては変わり者で、妥協知らずの自由主義者だから『東洋のルソー』と呼ばれましたが、本家フランスの啓蒙思想家たちと比べると常識人です。板垣退助は『そこまで言うなら、三井からカネを出してやるから実際に見てこい』と井上馨にフランス遊学を勧められ、フランスの現実を知ってからは二度と『フランス式の~』と主張しなくなりました。伊藤博文が帝国憲法制定の前に欧米の憲法事情を調査した時、フランスを全く参考にしませんでした。同じ共和国でもアメリカは見るべきところがありましたが、第三共和政のフランスなどは反面教師以外の何ものでもなかったのです。

 

 パリコミューンを鎮圧して、共和政体を軸にした憲法が制定されます。正確に言うと、三つの特定の法律を『憲法』と称しました。上下両院からなる議会を基礎とした政治を目指していました。大臣は議会に対し責任を負い、政治を円滑に運用する為に議会の多数派が内閣を組織しました。大統領は議会の選出であり、形式的な大臣任命権も議会の多数の意向に従って行使します。一方で、大統領には首相を含めた閣僚の罷免権があり、議会の解散権もあります。つまり、大統領と内閣と議会の三者が、それぞれに権力を持っているのです。第三共和政憲法はまとめる人が誰もいない体制です。これに軍部や官僚、裁判官なども政治勢力なのです。参考にすべきところが、まるでありません。大統領を儀礼だけを行う存在にしておくならば、(今のドイツやイタリアの大統領のように)実質はイギリスなんかと同じですから、安定したかもしれません。では、なぜ大統領の権力を中途半端に残したのか?それは、いつでも王様を迎えられるように、です。第三共和政は王政復古を前提として、スタートしていたのです。