憲政の常道は習慣として確立したものの、政権がコロコロ変わり、少数与党なので揉めていたというのが現状です。主に揉めていた政党の3党は以下の通り。憲政会総裁、若槻礼次郎首相。政友会総裁、田中義一。政友本党総裁、床次竹次郎の面々です。しかし、のちの話になっていきますが、憲政会は床次竹次郎を引きずり込み、憲政会と政友本党が合体して、『憲本連盟』を組んで、政友会に対抗します。そして政権に居座るという手段に出ます。この『憲本連盟』が民政党になります。面白いのはこの床次竹次郎がついた方が負けるということが起きます。この御仁、簡単にカネで裏切ります。そしてそういうことをう許さなかったのが最後の元老、西園寺公望でした。この無能でおなじみの西園寺公望は70歳を過ぎてからマトモになってきたというおかしな御仁でもあります。いかがわしい輩が政権に就くことは許さないという確固たる信念があったようです。仮に議会で多数派になったとしても、おかしな輩ですと政権を譲らないという至極真っ当な考えで西園寺公望は政権のフィクサーとなっていました。そういう状況下で、大正15年1926年12月。大正天皇が崩御します。そして、昭和天皇への践祚が行われます。昭和の始まりです。昭和2年、1927年1月。当時、少数与党の憲政会が議会運営の困難になってしまいます。というのも、数々の汚職事件が発覚し、お互いの政党が暴露合戦を始めるという…そうなると、議会は紛糾してしまいます。予算通過どころの話ではありません。荒れに荒れた国会となりました。予算を通過ができない場合は、総選挙になるのが通常の流れなのですが、憲政会総裁、若槻礼次郎は選挙はしたくありませんでした。理由はお金がなかったからです。若槻礼次郎は憲政会の党員には一切、相談せずに、田中義一や床次竹次郎に頭を下げに行き、何とか予算を通過させてくれ~!と懇願します。田中義一も床次竹次郎も選挙はやりたくなかったのか、その懇願に同意してしまいます。これを3党首妥協といいます。結果的に予算は通過することにはなりますが、憲政会の党員は激怒します。もちろん、マトモになった最後の元老、西園寺公望も激怒します。西園寺公望はマトモなことを言います。若槻礼次郎に対して、なぜ解散しないんだ?と詰め寄ります。国民に審判してもらえばよいではないか。カネの問題ではないんだ!と正論を言います。もうメタメタな状況です。というのも、この時期、大不況だったからなのです。金融政変が起きるのです。

 

 そもそもは1923年に起きた関東大震災による震災不況でした。関東大震災前にも第一次世界大戦後の不況もあったので、関東大震災後はダブルの不況。不況がさらに深刻になっていきました。震災後に発行した国債の処理をめぐって、震災手形による金融危機になってしまいました。そういう不穏な状況の中、1927年3月14日片岡大蔵大臣が失言をして、とんでもないことが起きてしまいました。国会の答弁で危機にある銀行とは違う渡辺銀行が倒産すると失言しました。渡辺銀行は真っ当で正常な銀行でした。でも国の財政のトップの大蔵大臣の発言です。渡辺銀行に預金していた人々が渡辺銀行に殺到し、預金を下ろしまくるという事態になります。それは当然です。銀行が破産したら、預けていたお金は無かったことにされてしまいます。そういう群集心理で、取り付け騒ぎとなり、渡辺銀行は本当に破綻してしまいます。それどころか、銀行に対する不安が蔓延し、ここかしこで取り付け騒ぎが勃発するという事態になりました。当時の銀行ですと、破綻させることは簡単で、預金を全部降ろされてしまうと、銀行は破綻します。そういう騒ぎが起きてしまうのです。一方、この金融危機に際して、若槻礼次郎は国会をまとめることができずに、枢密院に泣きつきます。枢密院から緊急勅令を出そうとしていました。国会では紛糾しすぎていて法律なんか通る状態ではありませんでしたし、憲政会の議員では数の論理で負けるからです。衆議院で可決できないのならば、枢密院からという奥の手を出してきたのです。ところが、枢密院ではこの若槻礼次郎の思惑を全否定されます。泣きついたのに、袖にされたのを恨みに思い、逆ギレして、4月20日に内閣総辞職をしてしまいます。そして、田中義一政友会総裁に大命降下があります。組閣後に、総選挙を行う手順です。この組閣が秀逸でした。不況乗り切りの名人、高橋是清を大蔵大臣に任命するのです。高橋是清は総理大臣としては無能ですが、大蔵大臣の時に、不況を乗り切る名人とした手腕は凄いです。金融危機の中では政府が国民にお金を配るのが不況を乗り切るための手法です。現在の日本はそれをやらないからずっと不況が続いているのです。高橋是清のパフォーマンスも見事でした。銀行の連鎖倒産の不安の中、高橋是清はお札を大量に刷り、それを銀行の窓口のところに積んでおけという指令を出します。お役所仕事の大蔵省がそれだけの大量のお札はすれませんと嘆くと、表だけすればよろしい。それを積んでおけ!と指示します。実際に表だけすられたお札を銀行の窓口に積むということをしました。すると、その見せ金で安心したのか、人々は取り付け騒ぎをやめて、銀行連鎖倒産不安は40日で終息してしまいました。取り付け騒ぎは収まったのです。高橋是清は財政に関しては至極まともな人でした。こういう人物が今後、ほぼ出てこないのが日本の政治の呆れるところです。この金融危機を乗り切った後に、総選挙が行われます。この時初めて普通選挙が行われたのです。

 

 選挙結果としては与党政友会は様々な金権選挙、選挙妨害を繰り広げながらも、憲政会とは互角の勝負になってしまい、大勝できませんでした。ここから政友会は切り崩しを始めます。憲政会からも切り崩すのです。中でもターゲットになったのは床次竹次郎でした。この男、張学良からも資金援助を受けていました。敵国の軍閥からお金をもらっていたという恥ずべき日本人、第一号です。そういう輩ですから、政友会にコロッと寝返ります。そうなっていくと、政友会の与党は盤石になってしまいます。これが本当に民主主義かというのは疑問ですが、札束が乱れ飛ぶのはいつの時代も変わらないということでしょうか。カネで平気で人を裏切るのは政治家の政治活動以前のモラルのなさだと思いますね。とはいえ、政友会と民政党の二大政党政治になっていきます。2大政党の外交路線ですが、本質はほぼ同じです。民政党の幣原喜重郎の外交は軟弱外交と言われました。対米英ソ協調。日中友好。政友会の田中義一の外交は武断が行こうと言われました。対米英ソ協調。居留民保護のために対シナ介入です。基本は対米英ソ協調は同じで、シナにいる日本人居留民への対応だけが違うということです。この当時のシナ大陸は動乱でした。これが東アジアにとっては頭痛のタネです。動乱状態ですから、日本人居留民の保護はしなければなりません。日本人を守ることが日本の使命です。ところが、幣原喜重郎という御仁はそれをせずに見殺しにしていた。ただ田中義一も助けろ!という積極策ではなく、是々非々でした。これには現場にいた関東軍も不満に思っていました。そういう状況で、事件が起きてしまいます。張作霖爆殺事件です。

 

 そもそもシナ大陸では大動乱でした。蒋介石の北伐に対して、張作霖が抵抗しているという軍閥同士の争いです。張作霖が蒋介石に負けて、祖国の満洲に引き上げるさなか、張作霖が爆殺されるという事件が起きました。これを張作霖爆殺事件と言います。通説によると、犯人は関東軍参謀、河本大作大佐の単独説と言われています。ですが、現在のところ、きちんとした証拠もなく、犯人は複数の説があり、混沌とはしています。わからないというのが真相です。しかし、当時、関東軍は張作霖の爆殺された満州鉄道を警備する義務がありました。そこで爆殺事件が起きたら、警備上の不備を指摘されても仕方がありません。しかも、事件を起こしたのが、警備する関東軍の中から出たということになれば、これは日本の責任上、かなり大変なことになります。誰が行った犯行は断定できませんが、現在のところは警備不備という理由で日本に非があると言われています。ただし、この通説は根深く残り、日本人が犯人であると信じ込んでいる日本人が多くいるのは確かなことです。当時から、犯人は日本人であると言われており、日本の政官界は1年以上、この問題で大揺れに揺れます。逆にこの事件を利用して、足の引っ張り合いがありました。そもそも、政党政治は敵の足を引っ張ることのやり合いなので仕方がないことだとは思いますが…

 

 張作霖爆殺事件は日本の政界で大騒動になっていました。勢力図としては政友会、田中義一総理総裁 VS 民政党、浜口雄幸総裁 という形です。政友会には枢密院や陸軍がついています。民政党には宮中側近や貴族院がついています。民政党は貴族院を使って、政友会の法案に対して却下を連続して行うのですが、衆議院の数で圧倒している政友会には歯が立ちません。こういうグダグダな政争を続けていますが、政友会はびくともしませんでした。民政党は最後の刃を向きます。民政党は宮中の面々を味方にしていますから、それらを利用して、昭和天皇を動かします。これは正論なのですが、張作霖爆殺事件に関して、警備責任は関東軍にあります。ましてや関東軍の人間が犯人とされるならば、陸軍の責任は問わねばなりません。これらのことを昭和天皇に吹き込みます。意気盛んな昭和天皇は激怒します。陸軍は政友会のイヌですから、政友会の総裁は何らかの責任を負わないと筋が通らないということです。結果的に、昭和天皇は内閣に対し、厳罰をしないのならば、責任を取って辞めろと言ったとか言わないとか…とはいえ、昭和天皇を怒らせたのは事実ですので、万策尽きたという感じで田中義一内閣は総辞職します。とはいえ、まだまだ、この時代、この後、いろいろなことが起きます。その度に、間違った判断をして、さらに悪化させるということを繰り返しているのが昭和初期の歴史です。その模様は次回に。