5月に入り、ゴールデンウィークの4連休といったところですが、僕にはあまり関係ないかなという感じで過ごしています。4月の中旬にあったフワフワ感も一進一退の中、何とか回復傾向には向かっており、メンタルはもう良いのですが、あとは体調かなといったところ。体調も一進一退で、良かったり、悪かったりの繰り返しで徐々にコンディションは上がっている感じですね。メンタル回復のきっかけの『梨泰院クラス』も全話、観終わってしまい、まあ、いつもの感じになってきたなといったところです。メンタルの回復傾向としては、おかしなところに多少の怒りを感じること。いっら、いっらという感情が来たときに、来た来た!戻ってきたという感じですね。まあ、ブログでお話するほどのことでもありませんし、おかしなことはそこら中にあふれています。こういう時に、何を信じてよいか?ということになりがちですが、信じることは別にしなくても良いかという感じではいます。おかしなことがあっても、受け入れて進めば良いだけですから、それはそれとして、そういう流れならば仕方がないことでしょう。とはいえ、おかしなことをすれば必ず、その報いは受けます。おかしなこと、道にはずれたことをしていけば、必ず、それが伏線となり、大きな災難が降りかかっていくものです。その災難を食らった時に、気がつかなければいけないのですが…それは生きる上での修行みたいなもの、この気づきがあってこそ。気がつかなければ、何度も何度も同じ災難が降りかかります。そういうものでしょう。それは一度目は悲劇ですが、2度目からは喜劇になります。当の本人はわからないことですが、はたから見るとそう思いますね。同じところをぐるぐる回っているのも、それはそれで人生ですが、どこかで気がつかないというのは楽しいことではないような気が僕にはします。

 

 物事には王道というか、進むべき適切な道のようなものがあります。天道というか、お天道様が見ているよ。その行動には恥ずかしいところはないのか?という教えです。ただ、その流れというか、道を踏み外すことはよくある話です。競馬をやっているから肌で感じることですが、この人間の欲というモノはそういう道を照らすことはありません。手探り状態ですし、ついつい、自分の欲に負けて、安易な選択をしがちです。それが正しいのか間違っているのか、その瞬間にはわかりませんが、結果的にそこが分かれ道であったということはよくある話です。そういう分岐点みたいな選択肢をどう選択するかから、メタバースという発想になっているのではないかと思いますね。道にはずれれば、必ず罰が下ります。はずし方にもよりますが、その基準は罰がどれだけ大きいかによることだと思いますね。人に迷惑をかけてばかりいる人の運気はけして良くないと思いますし、ロクなことに巻き込まれないことが往々にあるでしょう。まあ、俯瞰してみると、包括的に面白くはなっているのでしょうが、当の本人は大変です。道をはずれれば、それが止まらなくなることもあるからなのです。どんどんどんどん突き進むしかない。そこで立ち止まって軌道修正が出来れば良いのですが、気づいたときには泥沼化して抜け出せない。それはよくあるパターンだと思います。実は、組織の中にずっと在籍していると、そういうことになりますし、在籍時は自覚がありません。ですから、その後、厄介なことになっていくのです。しかも、いろいろな呪いにかけられていますから、余計にこじらせることになっていきます。その呪いは10代の教育から培われている呪いなので、その呪いを解くということは難しいことなのかもしれません。

 

 では、その呪いとは何かというと、結果至上主義、評価主義、ランク主義ですね。エリートとか、役職の高いに人をなぜか有難がり、凄い人と思われがちですが、これは全て幻想なのです。その幻想を僕は呪いにかかっているというように見えます。そこから派生するのが、利己主義、自己中心的なマインドになります。その発展形が自分さえ良ければよいというマインド。このマインドの持ち主はだいぶ痛いですね。そういう人に接するとだいぶ滑稽に見えますしね。これらの呪いは組織に属していれば、必ずかけられてしまうものです。というのも、この呪いにかからないとはじき出されてしまうからです。よく、企業では有能な人が辞めるという事態がありますが、それはこれらのマインドに嫌気がさしているのが原因だと僕は思います。このマインドの信奉者は居心地が良いので、それらの組織には生存可能なのです。ただ、まあ、この組織にいるうちは良いのですが、ひとたびその組織から離脱した場合、その後の人生は?という問題にぶち当たります。その組織では常識だったことが世間では非常識になっているからです。その自覚がない感じで振舞っていけば、必ず問題になります。表面化する分にはまだラッキーなことですが、表面化しないで、徐々に時間が経過して、実はそれが問題だと気がついたときにはもう後戻りできない状況に追い込まれているケースは在りがちなことです。このような呪いにいつ気がつき、いつ解脱するかは大事なカギになると思います。人生を進む上ではその手の呪いは百害あって一利なしのマインドだからです。でも、気がついたところで、人は早々変われません。そうなると、苦しくて、つまらないことばかりです。あげくの果てには酒に溺れたり、最後は自ら命を絶つということは珍しくありません。そういう流れが見えていますから、その流れに乗らないようにするためにはどうすれば良いかということを考えないと本当はいけないのです。自分の人生を有意義にするためにも。ここからが自分の底力が試されていることなのかもしれませんね。

 

 よく保険会社がのたまう、老後の人生設計という言葉ですが、このイメージは実に曖昧です。老後というと、暗いイメージしかありませんが、果たしてそうでしょうか?確かに老化に伴う身体的影響で行動が制限されることはあります。しかし、若い時は周りの同調圧力によって、行動を制限されていました。つまり、生きるということには制限がかかるということは当たり前の話ですし、子供の時から老後まで変わることはないのです。その前提を覆すには意識を変えないといけませんが、その意識を変えるというマインドに行き着くかという話になっていきます。自分の生きたいように生きるということはなかなかできないことです。それなりの代償は払いますし、すべて100点満点!というわけにはいきません。なにをどう取捨選択するかということなのです。ここで必要なマインドは足りるというマインドです。そして、そのことに感謝するという意識です。人は人、自分は自分ですし、人と比べても仕方がないことですし、人と比べるという発想自体が心の貧しさを露呈しています。例えば、幸せを考える時、○○さんよりは幸せという発想になっていることはその時点で不幸せであると僕は思っています。別にそんなことどうでも良いのです。自分自身が満たされれば、比較することに意味はありません。この比較するという発想も評価主義、結果主義の成れの果てですから、このマインドの根深さは想像以上のものだと思いますね。人の目を気にして生きてきた人にとってはなかなか大きな壁でもありますし、革命的な意識の変化がない限りは、共に歩んでいくしかないようです。これはシンドイと僕は思ってしまいます。このマインドが呪いにかかっているということであるという事実に気づいて欲しいものですが…なかなかね。難しいよね。そうそう変わることって容易いことではありませんから。ただ、その呪いからの解放によって、苦しみや悲しみから解放されれば良いのになぁ~とは思っています。そんなことで悩んでいるのもバカバカしいことだと気づいて欲しいものです。

 

 本日、難波に行ってきたのですが、ゴールデンウィークということで、物凄い人の数・・・人酔いしそうなので、賑わっている通りを避けて、遠回りして目的地に向かいました。どこも有名店は行列ができていて、これなら家で食べた方が良かった・・・と思いました。こういう日があるのは仕方がないし、並んでまで食べたいと思わなかったので、何とか、並ばずに済むようなお店をセレクトしてランチをしてきました。で、帰宅したのですが、だいぶ歩いた…早いもので、今日は金曜日。明日の競馬の予想をしなくちゃという感じですが、何だか今週は気が入らない。まだまだ、回復途上ですね。体調も今ひとつですし、もっとコンディションが上がらないととは思っています。コンディションをもっと上げれば、さらに楽しさは増えると考えています。どうせ生きているのですから、何事も楽しむ心でいきたいと思っています。そして、充分に楽しみたら、感謝の心を忘れない。そういう意識は持っていきたいですね。今日という日は同じようでも、まったく違うものですから、こういうことを楽しみたいですし、変化も楽しみたい。おかしなことが多すぎる、世の中で、そのおかしさを楽しめたら素敵なことだと思っています。