いよいよ日本とフランスが交錯します。ナポレオン3世時代の大国フランスからすれば、アルジェリアもメキシコも、ベトナムも日本も同列だったでしょう。ちなみに外交官のグロ男爵は『日本は極東で、もっとも文明化した国』とお褒めの言葉を残してくれていますが、まったく嬉しくはありません。さて、日本史の本を読んでいても、こんな説を聞いたことがあるでしょう。幕末政局は、英仏代理戦争だった。フランスが後押しする江戸幕府を、イギリスが後ろについた薩長同盟が倒して明治新政府を樹立した、という意味です。さて、この場合のフランスって誰でしょう?常識で考えて、ナポレオン三世の政府です。では、ナポレオン三世の視界の中に日本が入っていたのか?はなはだ疑問です。ナポレオン三世自身がノリノリで始めたメキシコ問題だって、隣の国でビスマルクが台頭してくると放り出すくらいなのですから。当時のフランスと日本の力関係からいって、フランスの対外政策においての日本のことなど、優先順位はかなり低いでしょう。幕末の日本など、陰謀の対象にもならないし、視界にも入らないくらい小さくて弱い存在だったという事実を認識することで、では、『なぜ、たった数十年で世界に冠たる大帝国を築けたか』の秘訣が理解できると思います。なお、フランスの国策としては日本が対象外だったことと、幕末政治にフランス人が関わったことは、まったくの別問題です。ひとつづつ見ていきましょう。

 

 日本が最初に和親条約を結んだのは、アメリカとです。続いて、英露蘭と結んでいます。そうしたなか、なぜかフランスは琉球と条約を結びます。1855年、仏琉和親条約です。薩摩藩の領土である琉球が『王国』を名乗っているので、独立国と勘違いしたのでしょうか。お茶目なことをするものです。江戸幕府は不平等条約を受け入れざるを得ず、安政の五か国条約を結びます。これは他の国との条約にも採用されて、明治政府はその撤回に苦慮することになります。フランスは、その五カ国の中に入っています。調印したのは、グロ男爵です。国交が結ばれたので、1859年に領事が着任します。初代領事はギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールという、清国でグロの部下としてアロー戦争に関わっていたアジア通の人でした。2年後に公使に昇格しますので、初代公使でもあります。この人は、1864年まで日本にいましたが、幕府との関係は良好でした。ベルクール在任時に、いくつかの大きな事件が起きています。1862年、薩摩の国父・島津久光が大名行列を横切ったイギリス人を斬り捨てた生麦事件。翌年の1863年、その報復としての薩英戦争。同年、長州藩が仏米蘭に砲撃を加えて返り討ちにあった、下関事件。1864年、英国を加えた四か国が長州藩を武力制裁した馬関戦争。教科書に載っている大事件だけでもこれだけありますが、日常的に攘夷の風は吹き荒れ、異人斬り(つまりは殺人事件)は日常的に発生しています。ベルクールは、常に英国との協調を旨としていました。そもそも、幕府が伝統的な『鎖国』政策を放棄して、開国に転じたのは、クリミア戦争の最中でした。クリミア戦争では英仏は同盟国としてロシアと戦っています。馬関戦争でも、英仏は同盟国です。この時、フランス軍は下関を一時占領しました。英仏は基本的に同一歩調です。

 

 ベルクールの後任の公使は、レオン・ロッシュです。英国公使のオールコックやパークス同様、幕末政局に絡みます。ベルクールと違い、ロッシュが目立つのは、独自路線に走ったからです。ロッシュは大学中退後、アルジェリアで勤務していた外交官です。1864年に、来日しています。ロッシュは、英国との対立も辞さず、幕府に肩入れをしました。横浜製鉄所、横浜仏語伝習所、陸軍三兵伝習を三大事業と言うのだそうですが、小栗上野介に代表される親仏派官僚と強固な関係を築いたので、可能でした。1861年、ロシアが対馬を占領した時、小栗上野介は正論を吐くも通りませんでした。また、日本国の非力を痛感します。そこで、フランスの力を借りて、幕政改革を行おうとしたのです。イギリスという海洋のチャンピオンがいて、ロシアという大陸のチャレンジャーがいる。当時の国際政治はその両国の対立で動いている。しかし、日本のような弱小国がそのいずれかと組めば、もう一方に潰される。この時代、『俺の敵と仲良くするな』というのは、武力制裁をする十分な理由になるのです。だから、最初にアメリカと組んだのですが、その頃のアメリカは南北戦争で内戦状態ですから、日本に関わる余裕などありません。また仮に、関わったとしても英露のような大国にモノを申せる力などありませんでした。しかし、フランスは世界第三位の大国です。英露に対し、一定の発言力はあります。日仏が組めば、何とか対抗できるのではないか。小栗上野介ら親仏派官僚の思惑は、当時の状況を考えると、極めて合理的かつ現実的だったと言えましょう。ただし、目の前の現実に合わせた合理を積み重ねて、どんな未来があったのか。本当は、現状をちゃぶ台返ししなければならないときに、ちゃぶ台の上の配慮にばかり気を配っている。親仏派官僚は極めて優秀でしたが、彼らの政権が長く続いても、明治維新のような改革ができたかどうかは、極めて疑問です。

 

 1866年、徳川慶喜が幕府の将軍になります。当時、日本の切り札と目されていた政治家です。名門出身、大派閥の領袖であり、巨大な人脈、豊富な政治経験、怜悧な頭脳、卓越した弁舌。加えて個人的な身体能力も高く、何度も戦場に出て、武人としての力量も知られていました。その徳川慶喜が頼ったのは、親仏派官僚です。必然的にロッシュと結びつきます。徳川慶喜が行った政策を、慶応の改革と呼びます。江戸幕府の改革と言えば、享保・寛政・天保の三大改革が有名ですが、天保の改革はアヘン戦争に対する改革です。しかし、天保、安政、文久と、幕末の改革はいずれも功を奏せず、『改革』の掛け声倒れのようになります。結果的に慶応の改革もそうなるのですが、この時点では、徳川慶喜の評価は『神君家康公以来』です。日本史の教科書では、『ペリーが来て~幕府は何もできず~長州征伐失敗で権威が失墜して~討幕が成功して明治維新』とかなり端折って書いていますが、子細に検証すると幕府だって一時的な立て直しには成功しています。少なくても、前年の長州征伐の失敗は、徳川慶喜が将軍に就任して矢継ぎ早に行った改革の時点で、取り返していました。1867年の時点で、イギリスの肩入れする薩長が、幕府を倒せると考えている人はなどいるのでしょうか、という空気だったのです。

 

 ロッシュは、当時のお金で240万ドルの支援をしました。徳川慶喜はそれを元手に、横浜製鉄所を作り、それまでの米での支払いをやめて給料の金銭払いによる四十八大隊二万四千人の親衛隊を創設します。古い旗本制度を改革し、将軍親衛隊として奥詰銃隊を整備します。フランス人の軍事顧問団を雇い入れ、歩兵・騎兵・砲兵の三兵から成る伝習隊を指導してもらいます。統治制度でも、老中格の総裁制度を導入します。国内事務(内務)・外国事務(外務)・陸軍・海軍・会計(財務)の役割を設け、それぞれの総裁(大臣のようなもの)を置いたのです。事実上の内閣制度です。王政廃止後のフランスは大統領の下に首相がいるのが常態ですが、徳川慶喜の時は将軍の下に老中首座と5人の総裁がいる体制です。まさにフランス型行政府です。さらに一族の徳川昭武が海を渡り、パリ万国博覧会に出席しています。徳川慶喜は新将軍として諸外国の使節を引見すると通知しました。これに反発したのがイギリスです。『これまで幕府はさんざん、天皇の許可がないと外国とは条約を結べないだの、約束の実施を引き延ばしてくれだのと迷惑をかけてきた。それでも国家元首を気取るのか!』というわけです。パークス公使は『将軍を陛下とは呼べない』と当たり前のことを言ってきますが、要するに、『お前に条約を守る能力、ひいては国内を抑える力があるのか』と迫っているわけです。これに助け舟を出したのが、ロッシュです。『とにかく時間を稼げ』と助言します。徳川慶喜は『天皇陛下が崩御された。安政条約で約束した開港は延期したい』などと言い出します。イギリスとしたら、『なめているのか?』ですが、『幕府&現地フランス人 VS 薩長&現地イギリス人』では、幕府と薩長の勢力に差がありすぎて話になりません。それに英仏は敵国でもないし、むしろ友好国です。さて、ここで気づいたでしょうか。『現地』という言葉に。そうなんです。『幕末政局は、英仏代理戦争だった。』というのは、この場合の『英仏』とは、『現地の』もしくは『日本にいる』、つまりは日本にいる外交官たちのことなのです。世界に冠たる大英帝国にしても、フランスにしても、日本の優先順位など高くないのです。特にフランスの場合は、ロッシュがあまりにも幕府に肩入れしすぎていたので、フランス本国では眉をひそめていました。

 

 それでも、時の最高権力者と蜜月な間は良いのですが、徳川慶喜は日本国内の政局で敗北してしまいます。なぜ、徳川慶喜が敗れたのか。ロッシュが援助した徳川慶喜よりも、パークスが支援した大久保利通の意思が勝った。結果論ですが、政治とは意思と意思の激突です。最後は、錦の御旗を持ち出した大久保利通が率いる薩長の前に、徳川慶喜は尻尾を撒いて江戸に逃げ出しました。ロッシュは江戸まで追いかけていって、徹底抗戦を徳川慶喜に説きましたが、徳川慶喜は首を縦には振りません。1869年、もはや旧幕府軍への掃討戦と化していた戊辰戦争の最中に、ロッシュは更迭されました。フランス帰国後は外交官を引退します。なお、軍事顧問団はフランス本国より解散命令を受けましたが、ジュール・ブリュネ大尉らは、フランス軍籍を捨て、榎本武揚とともに、五稜郭まで一緒に戦いました。