フランスの7月王政期、フランス人は日本にも近づいてきました。1844年には探検隊が琉球を訪れています。また、1846年には長崎に来て上陸を拒否されています。しかし、そんなことをなど気にしていられない大騒動がヨーロッパ全土を覆います。フランス革命に反動的になりがちな、ウィーン体制に対し、急進的な自由主義者の不満が一斉に爆発したのです。1848年、『諸国民の春』と呼ばれる事件です。この年、五大国はスイス内乱の処理に忙殺され、パーマストンの独走にメッテルニヒ率いるオーストリア以下四大国がそっぽを向いていました。この時のフランスは、もうタレイランは亡くなっていましたから、対英協調が少し薄れています。しかし、そんな痴話喧嘩レベルのじゃれ合いでは済まなくなります。2月、パリで革命が勃発して国王は放逐され、共和主義に移行します。これを最後に、フランスは二度と王政に戻れていません。二月革命です。3月。ウィーンで反動体制打破を掲げる武装蜂起が発生します。狙いはウィーン体制の象徴ともいうべき、メッテルニヒです。彼は亡命せざる負えませんでした。逃げた先はロンドン、パーマストンのところです。日ごろは外交戦のライバルであっても、ウィーン体制というルールの下での争いです。そのルールそのものを潰そうとする相手からは守らねばならないという意識なのです。例えるなら、日頃は麻雀でライバルの雀士たちにとって、雀卓をひっくり返そうとするやつは単なる無法者で共通の敵、というようなものでしょうか。3月革命はウィーンだけでなく、ベルリンでも起きます。ロシアでも、好機と見たポーランドが独立運動を始めますが、武力で鎮圧されます。イギリスは騒動が比較的少なかったのですが、それでもチャーチスト運動という労働運動で揺れます。このように、ヨーロッパ全土に騒動が広がりました。ついでに言うと、カール・マルクスとフリードリッヒ・エンゲルスの『共産党宣言』が公表されたのもこの年の2月です。

 

 1848年は大変動の年でした。メッテルニヒが追いやられて、フランスでは二度と王政が出来なくされたのは大事件です。しかし、英露仏墺普が五大国である体制は変わりません。ですから、広義のウィーン体制は健在なままなのです。このヨーロッパの五大国は世界の五大国として、第一次世界大戦まで続くことになります。つまり、急進的な自由主義者の目論見はハズレました。特に、マルクスやエンゲルスなどは、国家という枠組み、そのものを世界中からなくそうと考えていた人たちです。国家という枠組みをなくすということは、たとえるなら、『世界中を北朝鮮にする』ということです。まともな裁判も警察もなく、単なる暴力団が人民を支配する。マルクス達の理想を実現すると、あんなふうになります。そのような危ない人たちに対し、国家という枠組みを守らねばならないという意識は、五大国をはじめヨーロッパ全土に強くなっていきます。諸国民の春において、フランスだけが革命を成功し、王政を打倒して共和政体に移行しました。しかし、その唯一勝利したと思われた共和政体は、はかない寿命でした。これはマルクスの言葉なのですが、『歴史は繰り返す。一度目は悲劇として。二度目は喜劇として』というのがあります。フランスは大革命以来、『王政➡共和政➡帝政』のサイクルを百年間で二回繰り返しています。マルクスが評した悲劇はナポレオン一世のこと、喜劇とは三世です。

 

 では、その喜劇の人物とはどのような人だったのでしょうか。本名はシャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト。ナポレオン一世の息子(とても性格と頭が良く、運動神経も良かった)が若死にしていたため、甥のルイはナポレオン三世を名乗るようになります。生まれは1808年ですが、母が愛人と密通して生まれた子ではないかと、出生から本当に皇帝の血を引いていたのかを疑われています。こういう生まれの人によくありがちですが、ナポレオン三世の女遊びは完全に病気です。手始めは13歳の時に女中を部屋に連れ込み…目についた女は手あたり次第、他人の恋人だろうが、人妻だろうが関係なし。高貴な身分でも庶民でも、はっきり言えば、悪食。それでもイギリスのチャールズ二世のように陽気な恋愛なら笑えるのですが、そこらじゅうでトラブルを起こしながら、恨みをまき散らすタイプの女遊びです。皇帝の時、女を寝取られた庶民がナポレオン三世に決闘を申し出にエリゼ宮にやってきたら、問答無用で部下に射殺させるようなご仁です。ナポレオン三世は7歳の時に伯父が失脚し、ヨーロッパ各地を転々とする、長い亡命生活を送ることになります。

 

 1836年、40年と帝政復古を目論んで二度も一揆を起して失敗、投獄されます。二度目は脱獄に成功しました。1848年、二月革命のどさくさで国会議員の補選に当選します。フランス議会はナポレオン一族の追放を法律で決めていましたが、ナポレオン三世があまりにもアホっぽいので安心して、その法律を破棄します。『共和国に忠誠を誓いま~す』としゃべる以外まともに演説が出来ず、知識がないので憲法制定の討論にも参加できません。ところが、12月に行われた大統領選挙では、あれよあれよという間に当選してしまいます。最初は五番手ぐらいの泡沫候補だったのが、有力候補がつぶし合いをしているうちに浮上し、『ナポレオン・ボナパルト』という知名度100%の名前での立候補ですから、消去法で支持を得たのです。得票率74%、政治学の教科書でポピュリズムの見本として挙げられる選挙でした。3年後の1851年、軍事クーデターで議会を解散し、王党派を一掃します。ついでに、憲法改正で大統領任期を十年に延ばしました。翌年の1852年に国民投票で皇帝になります。まさに、『歴史は繰り返す』です。ただし、ナポレオン1世の場合は、周辺諸国をすべて敵に回した祖国の危機を救ったという、軍事カリスマゆえの人気でした。この甥っ子のナポレオン三世は、栄光の時代を思い出す、『ナポレオン・ボナパルト』の屋号に頼った人気です。では、ナポレオン三世の実力はどんなものだったのでしょうか?

 

 その一、大統領時代、支持率を上げようとイタリアに侵攻。当時のイタリアは、『地名であって、国名ではない』と小馬鹿にされる体たらくで、『都市ごとにバラバラに分かれていてはダメだ。統一しよう!』と言いつつ、誰もまとめる人がいないという惨状でした。しかし、ナポレオン三世ごときに侵入されたことでナショナリズムに火がつき、1861年の統一につながります。本当はもっと話が入り組んではいますが、ざっくりとまとめるとこんな感じです。その二。オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟マクシミリアンを甘言で誘い、メキシコ皇帝に推戴。しかし、メキシコに到着するやいなや動乱が勃発し、皇帝は身の危険をこれでもかと感じる。フランスは見てみぬふりをして、アメリカ大陸から引き揚げる。残されたマクシミリアンは、革命派の暴徒に捕縛され、処刑される。マクシミリアンの最期の願いは『顔には撃たないで』だったが、メキシコ人は無情にも無視。フランスとしても、その三の事情でヨーロッパ大陸本国に火がついているので、メキシコなんかに関わっていられない事情がありました。それにしても、ナポレオン三世が一体何がしたかったのかは謎です。その三。ビスマルクの手練手管に、やりたい放題される。

 

 ナポレオン三世は陰謀好きでしたが、下手の横好きでした。世界史に残る陰謀家として卓越した手腕を発揮したオットー・フォン・ビスマルクと、同じ時代の、しかも隣国に生まれたのがこの喜劇の人の悲劇でした。ビスマルクの悲願は、プロシア中心のドイツを統一することです。プロシアはウィーン体制では大国とはいえ、ほかの四か国から大きく引き離された、どん尻大国でした。それが、ビスマルクが首相に就任するや富国強兵を成功させ、真の大国としての実力を蓄えます。そして、1864年のデンマーク戦争、1866年のオーストリア戦争と、快進撃です。プロシアだけでも大国なのに、それがザクセンだのバイエルンだの、他のドイツ連邦も併合したら、どれほど強くなるのか。明らかにフランスの国益には反するのですが、ナポレオン三世は何もできません。何の関係もない、ポーランド独立運動に介入するなどして露墺両国を怒らせるだけのような、愚かな外交を繰り返していました。そして、1870年、ビスマルクの策謀で普仏戦争を仕掛けられ、フランス軍は完膚なきまでに粉砕され、ナポレオン三世は捕虜に。パリは占領され、よりによってヴェルサイユ宮殿で『ドイツ帝国建国式典』が行われるという屈辱です。ナポレオン三世は釈放された後も、亡命先のロンドンで復権のためのクーデター計画を企んでいましたが、直後に急死してしまいました。このナポレオン三世の時にフランスはアフリカ植民地を拡大し、一時期はヨーロッパ外交界を振り回していたのですから、一時代を築いた政治家ではあります。特に、クリミア戦争では先陣を切ってロシアに喧嘩を売り、イギリスとともに袋叩きにするという快挙も成し遂げています。ですから、ナポレオン三世のすべてを否定することはできないでしょう。否定したいことは山ほどあるのですが…。ナポレオン三世の最後は、『ビスマルクの噛ませ犬』で終わってしまいました。フランスには苦難の時代が訪れることになります。