第一次世界大戦では、独墺連合軍は善戦しています。ドイツの奮闘はなかなかな感じでしたし、オーストリアもセルビアやモンテネグロを制圧しています。一方、英仏西部戦線では一進一退の攻防を繰り広げています。ロシアの東部戦線はドイツに劣勢です。思ったよりもロシアは弱かったということです。なぜか、第一次世界大戦を終わらせた功労者と言われているアメリカですが、メキシコの動乱で頭がいっぱい。アメリカの商船がドイツのユーボートに撃沈され、逆ギレして参戦したのが第一次世界大戦終盤の1917年4月。一方、日本はカナダから地中海を守るという活躍をしています。ただ、この第一次世界大戦は史上初の総力戦になってしまい、日露戦争のような落としどころ、戦争目的を決めて戦争するというスタイルとは様相が異なっていました。相手の総力を潰すために総力をぶつけるという収拾不能の戦争になってしまっていたのです。この様相の変化を日本の観戦武官は危機を察知し、日本の軍事力を強化しないと行けないという報告を日本に送っています。ですが、日本側はお金がないので、そんな余裕はないと無視してしまいます。この当たりから、日本政府の腐敗は始まっています。どうして、そんなことになっているのかというと、後述でお話ししますが、当時、原敬が首相になっていました。原敬の主眼は国防よりも、我用引鉄。そんなことより、鉄道を引け!利権を確保せよ!バラマキ政策の権化だったからです。そういう状況の中で、ロシア革命が起きます。

 

 1917年3月。ケレンスキーの革命が起きます。俗に砕氷船のテーゼとも言われます。これは凍った海に氷を砕きながら進む舟の様子と同じような手法だったということです。最初に強い敵にぶつけて、敵が弱まった時に本体が突入するという手法です。この戦略が得意だったのは、スターリンや毛沢東です。ですが、最初にやったのはレーニンということです。このケレンスキーの革命の時にレーニンはドイツに亡命しており、その場にはいませんでした。ドイツはロシアを弱ませる為に、活動家レーニンをロシアに送り出します。1917年4月のことです。封印列車でレーニンはロシアに帰国します。この経緯の時にレーニンはドイツと密約をしていたと思われます。ロシアに帰国したレーニンは1917年11月に共産主義革命を成功させます。ケレンスキー政府が毎月毎月政権が変わる不安定なところを狙い撃ちした形になります。レーニンが政権を取ると、1917年12月に、ロシア帝政時代の借金は無効を宣言。各国との秘密外交文書を暴露します。まだに独裁国家の誕生です。その後、1918年3月。英仏と協調していたはずのロシアが勝手にドイツに降伏します。ブレスト=リトフスク条約を結んでしまします。こうなると、ドイツはロシアに向けていた戦力をすべて西部戦線に向けられることが可能となります。レーニンはレーニンで、ドイツが戦争に負けることを含みながら、この際だから、英仏も弱めるように誘導しているのです。1918年8月。ロシア帝政の皇帝家族を皆殺しの銃殺(馬も含む)をやります。これで、世界はロシアはやばいぞ!共産主義はヤバいぞ!ということになります。さて、共産主義とは何なのか?簡単に言いますと、『世界中の金持ちを皆殺しにして、世界中の政府を暴力で転覆する。そうすれば、現在の北朝鮮のような平和な国家が生まれる』という実にバカバカしい思想です。恐ろしいことに、現在まで、この思想をもった人は存在しますし、主に左翼。一時は世界の半分はこの思想に染まっていた時期があったのです。この共産主義革命に対して、危機感を抱いたのはイギリスです。その為に、ロシア革命干渉戦争を起こします。

 

 ロシア革命干渉戦争ですが、日本でいうところのシベリア出兵と呼ばれていることです。ことの始まりは1918年5月にチェコスロバキアの兵士が反革命武装蜂起を起こします。8月に英仏、ついでにアメリカ、革命干渉戦争を開始します。英仏にとってはフランス革命の危機感を抱いていたことが主な戦争の理由で、チェコスロバキアの兵士を救えば、この干渉戦争は引くことができました。一方、アメリカはやる気がなく、日本をこき使うことになります。当時のアメリカ大統領はウッドロー・ウイルソンという狂人です。こいつが、日本にシベリア出兵をやらせたのです。では、なぜ、日本がホイホイとアメリカの言うことを聞いたのか?それは原敬がアメポチだったからです。アメリカの靴の裏を喜んで、尻尾を振りながらなめるという、媚米家だったからです。では、原敬がなぜ媚米家だったかというと、若き日にアメリカに留学して、この国には勝てないというコンプレックスを植え付けられたからと言われています。原敬は陸軍も掌握していますから、自由自在に命令を下すことが出来たのです。このシベリア出兵、戦争目的がありません。事情もよく分かっていなかったということです。戦略もなければ、戦術もありません。でも、日本陸軍は強いです。いざ、戦乱になれば、圧倒的勝利をします。ここで、どういうことになるかというと、大がかかりな鬼ごっこが始まります。ソ連兵は逃げまくり、日本兵はそれを追っかける。何の為にそうしているのかわからないまま、疲弊だけするという形です。上がバカだと、戦力があっても、勝てないという現代の森保ジャパンと同じことをすでにこの時、しているのです。シベリア出兵は日本にとって、何の利益もなく、何の得もなく、なし崩し的に終了するのです。終わりを想定していない戦争をすることは日本のお家芸にこの時から成っていたようです。いかに日本がアホだったのか…この悲劇は後年も行われることになり、泥沼化するということになります。

 

 日本国内はどうなっていたのかというと、1916年10月。大隈重信内閣(与党同志会)、総辞職。山縣有朋の最期の切り札、寺内正毅内閣を組閣します。政友会はいつでも、好きな時に拒否権を行使するぞ!と脅しをかけます。なくなく、臨時外交調査会を作り、原敬が主導していきます。1918年、シベリア出兵を行います。戦争が起きれば、物価が上がり、インフレになり、米の値段が高騰し、各地で暴動が起きます。これを米騒動と言います。この米騒動を寺内正毅内閣は制圧することができません。そこで総辞職して、原敬は各方面の要所を押さえつつ、満を持して総理大臣になります。しかも、その承認の総選挙で圧勝してしまうのです。政友会が与党に復活します。国防よりもバラマキ、アメリカの言いなり路線が確固たるものになります。こういう流れで、1919年、第一次世界大戦の講和会議である、ベルサイユ講和会議に大国として呼ばれて、出席することになるのですが…もうこの当たりから、日本の内政はグダグダになっていっています。よりにもよって、ベルサイユ会議で日本はやらかします。その模様は次回に。