日露戦争後、ロシアはアジア進出を断念し、ヨーロッパに目を向けるようになりました。ヨーロッパではバルカン半島がバルカンの火薬庫と言われるほど、あちこちでいざこざが絶えないおかしな時代になっていました。バルカン問題はヨーロッパの5大国にとっては悩みのタネで、よく言われる、大国が小国を振り回すということはウソで、小国が暴走して、大国を巻き込み、大国としては抑え込むしかなくて、よい迷惑をしているという感じです。小国に振り回される大国というのが当時のバルカン情勢をわかっている人にとっては定説になっています。とにかく、バルカン半島情勢はロジックが通用しない、なぜ、そんなことになるの?ということがたびたび起こるので、これはもう、こういうことであると事実を受け入れることしかありません。で、相変わらずの紛争に火がついて、第一次バルカン戦争があります。バルカンでは小国が大国に噛みつくという事態だったのです。1912年のことです。構図はオスマン・トルコ帝国VSブルガリア、セルビア、モンテネグロ、ギリシャです。中でも最初に宣戦布告したのはモンテネグロで、ブルガリア、セルビアをヘタレと煽っての参戦でした。モンテネグロが暴れまわっていると、ブルガリア、セルビア、ギリシャが参戦してくるという感じでした。大国に連合国と言っても、小国です。小国たちが大国、オスマン・トルコ帝国に噛みつきました。結果として、小国たちの、ブルガリア、モンテネグロ、セルビア、ギリシャがオスマン・トルコ帝国に勝利します。で、1913年5月に講和条約としてロンドン条約が結ばれます。ところが、お前!戦利品を取り過ぎだ!とブルガリアは他国から言われ、今度はブルガリアがリンチを受けます。ブルガリアに対して、セルビア、モンテネグロ、ギリシャが襲い掛かります。ついでに、オスマン・トルコ帝国も加わって、ブルガリアを袋叩きにします。これを第2次バルカン戦争と言います。1913年6月に始まり、8月にはブカレスト講和条約を結び、ブルガリアは縮小されることになります。その後、セルビアはオーストリア帝国を挑発しだすのですから、世話が焼けます。これらのバルカン戦争をヨーロッパの5大国は結託して力でねじ伏せて、戦線拡大を防ぎ、時間短縮で終わらせています。大国が力技を出して、協調して抑え込んでいるのです。バルカン問題にかかわるとろくなことがありません。巻き込まれた大国はいい迷惑です。ただ、そういう状況ならば、その後、なぜ、世界大戦になったのか?これはもう、マヌケな事象の連続した偶然の出来事だったのです。

 

 そもそも世界史の教科書ではこのバルカンの火薬庫の説明として汎ゲルマン主義と汎スラブ主義の対立という説明がされます。こういう構図です。

 

 英仏が支持するロシアの汎スラブ主義(セルビア・モンテネグロ・ギリシャ・ルーマニア)

                      VS

 オーストリア・ドイツの汎ゲルマン主義(オスマン・トルコ帝国・ブルガリア)

 

 ですが、この構図、おかしくないですか?第2次バルカン戦争で、オスマントルコはブルガリアを叩いていますし、そもそもオスマントルコはイスラムですし、ブルガリアはスラブ民族の国です。構図的に無理があり過ぎます。わざわざ民族問題にしたがっているようにしか見えませんし、ことの本質ではなく、凄く狭い一面をさもこれが本質!と言わんばかりの説明の仕方です。バルカンの火薬庫は本当に事実を積み重ねると、訳が分からなくなるので、説明がつけられないのが本質です。セルビアがオーストリアに噛みついて、負けそうになるとロシアに泣きつくということを平気でしますし、ロシアが弱まれば、オーストリアにつくということもします。一瞬で敵味方が変わるのがバルカン問題の本質。ここを理解しろというのことの方が難しいことなのです。だからといって、世界史の教科書は雑すぎます。第一次世界大戦をきちんと説明しようとすると、必ずバルカン問題があり、このバルカン問題がロジックでは説明がつかないので、本当に難解なことになります。大事な事実には目をつむり、さもありそうな民族問題に仕立て上げるのはどうかと思います。これは現代にもあって、中東問題を宗教問題にしたがる傾向があります。バルカン問題を理解している人にとっては中東問題は優しいです。ですが、歴史を知らない人に説明する場合、日本では中東問題を宗教問題の側面だけ強調されます。これは本質とはだいぶ違うところなので、わからないと思考停止するのはどうかとは思いますね。

 

 第一次世界大戦はバルカン問題が前提にあります。しかも、マヌケな事象が続く、偶発的に起きた戦争なので、誰も止めることができないというところまで行ってしまいました。総力戦の始まりなのですが、第一次世界大戦がなぜ発生したのかと言いますと、事実だけ追ってみると、以下のことが起きています。

 

 1.マヌケな偶然の連続

 2.小国の暴走を大国が抑制できなくなった

 3.セルビアとブルガリアの戦闘が激しくなった。

 4.どの国も一瞬で裏切る(バルカン外交)

 5.軟弱論を言うと国王でも暗殺されるので、強硬論しか言えない。

 6.『敵の敵はやっぱり敵』なので見境がない

 

 1から順に説明していきます。そもそも第一次世界大戦において、必然は何一つとしてありません。1914年6月28日にサラエボ事件が発生します。この事件自体がマヌケなのです。6月28日自体はボスニアヘルツェゴビナにとって特別な記念日です。その日になんで、オーストリア帝国のフェルナンド大公夫妻がパレードするのか?しかも、事故があって、パレードの通る道を変えたら、変えたところに、サラエボの青年暗殺者がいて、狙撃した。こんなマヌケな話はありません。記念日にパレードをしないのが通例の儀礼ですし、そもそもパレードをしたところで、予定している経路とは逸れたところに、暗殺者がいるわけですから、偶然にもほどがありすぎます。起きるべくして起きた事件とは言い難いです。そして、オーストリア帝国宮中ではフェルナンド大公が死んだことで喜んでいました。厄介払いが出来たからです。ところが、まあ、メンツを潰されたので、対外的に一応、お灸を据えようと、オーストリア帝国がボスニアヘルツェゴビナに攻め込みます。当然、それを見ていたセルビアが参戦します。セルビアと繋がっているロシアが引きずられて…これは、2の説明にもなるのですが、セルビアが加わったところで、恨みに思っていたブルガリアがセルビアを攻めるということになり、どんどん戦線は拡大していきます。こうなると、大国でも抑制が効かなくなりました。その後はなし崩しです。オーストリア帝国と同盟国のドイツはオーストリアが参戦したら、助けにいかねばならず、このドイツも、ヴィルヘルム2世というアホがやらかします。ドイツ軍としてはシュリーヘンプランという戦車と航空機がないとできない作戦をヴィルヘルム2世に上げます。それでドイツ軍は皇帝が考え直してくれると期待したのですが、ヴィルヘルム2世はアホなので、これで行こう!となり、フランスに宣戦布告します。このプランはフランスを叩いて、東に旋回してロシアも叩くというおかしな作戦です。ただ、フランスの抵抗は強く、なかなか、思うようにいきません。フランスが攻められたら、イギリスも参戦します。ちょっとしかいなかった軍隊でロシアを叩いたら、あっさりロシアが負けるというおかしさもあり、第一次世界大戦は激しい戦争になっていきます。

 

 この状況を見た、日本では井上馨は『天祐だ!』言っています。日本が世界の大国になれるチャンスであると考えています。首相の大隈重信は無能なので、おいておいて、元老や軍を無視して、外務省が暴走します。つまり、いろいろありましたが、日英同盟の発動で、日本は第一次世界大戦に参戦することになりました。日本軍は強いです。日英連合軍は日本参戦後7日目でドイツの要塞の青島を攻略します。海軍は年内に南太平洋を制圧し、ドイツ軍を追っ払います。ヨーロッパまで助けてくれ!と言われ、日本海軍は地中海まで行って助けています。ドイツ海軍は日本海軍に海の藻屑とされる状態で、日本海軍は地中海まで監視を続けていました。第一次世界大戦というと、アメリカがのちに参戦してヒーロー的な存在になったと世界史の教科書には書いてありますが…その頃、アメリカは何をしていたかというと、まずは、ウッドロー・ウイルソンという狂人が大統領でした。そしてメキシコに革命が起きていて、その対応で大わらわ。とてもじゃないけど、第一次世界大戦に介入する気はさらさらありません。ドイツ、イギリス・フランス両国に武器を売り、金を貸しているという状態でした。終戦直前にアメリカの商戦がドイツ海軍の潜水艦によって撃沈されると、頭にきて、参戦したと言うのが現状です。死の商人とかして、アメリカは経済大国に成り上がっていきますが、こと第一次世界大戦は、アメリカのおかげで連合国が勝ったわけではありません。そこは大きな間違いです。

 

 第一次世界大戦のそういう戦闘の中、1915年10月にロンドン宣言ができます。その時に日本の外務省のエース、石井菊次郎はロンドン宣言に加盟をします。それは日本は単独では講和しないという約束を英仏露伊にします。これは最後まで見捨てない、裏切らないで、一緒に最後まで戦うという日本の意思表示でした。この甲斐があって、日本は第一次大戦後に世界の大国の仲間入りができるようになります。ただ、この石井菊次郎はこの後、みるみると発言権が無くなっていきます。正論が通らない時代に突入していくのですが・・・ まあ、それはさておき、第一次世界大戦の途中に、ロシアで革命が起きてしまいます。その模様は次回に。