桂太郎内閣を失脚させ、桂太郎を憤死させてできたのが山本権兵衛内閣です。山本権兵衛は海軍の重鎮で、関東大震災も見事な手さばきで復興させるという能力の高い人です。ですが、政友会の原敬の傀儡です。実質は原敬内閣というのが現状でした。山本権兵衛は原敬の操り人形として内閣を運営することになります。原敬は自分の都合の良い様に改革を打ち出していきます。そのひとつが、軍部大臣現役武官制の廃止です。軍部大臣は現役の武官しかなれなかったことをこの現役を取ってしまいます。そうすると、退役しても元武官だったら、軍部大臣になれるという制度です。つまり、陸軍や海軍が内閣を潰すために軍部大臣が辞職したり、その後継者を軍部から出さないという駆け引きを潰すためのモノです。しかも、陸軍や海軍にとって、体制内で反対するものをあえてぶつけるという嫌がらせもできることになります。現在でいうと、内閣に菅直人を送り込むようなものです。まあ、現代の内閣はフニャフニャで何もしない、増税だけする内閣ですから、大して影響はありませんが…この軍部大臣現役武官制の廃止に猛反発したのが元老の山縣有朋です。当時、山縣有朋は枢密院議長でした。原敬はその山縣有朋枢密院議長を罷免し、恫喝します。しかも、枢密院の人員削減も行い、この勢力の縮小を図ります。まさに、原敬のやりたい放題でした。原敬は満面の笑みだったことでしょう。では、なぜ、山本権兵衛が原敬如きの輩に良いようにされていたのかというと、最大の主戦場は予算をだったからです。

 

 当時の政界は 衆議院(政友会)+海軍 VS 貴族院 +陸軍

 

 という勢力構図でした。この両者が予算を如何に分捕るかで対立していたのです。海軍の重鎮、山本権兵衛が原敬の軍団に取り入るのは、予算審議権で圧倒的に強い衆議院の過半数を原敬率いる政友会だからです。政友会の軍門に下れば、予算が海軍に回ってくるという切実な事情があったからです。軍艦をひとつでも増やしたいというのが海軍の総意ですから、原敬の靴の底を舐めてでも、海軍に予算を回すということに徹した結果だったのです。そういう事情があったので、バラマキ政策を推進する原敬は好きなようにやっていたのです。しかし、その期間は長くは続きません。ある事件が起きます。それはジーメンス事件です。

 

 1914年1月にジーメンス事件が発覚します。簡単に言いますと、海軍の贈賄事件です。山本権兵衛はクリーンだったので、問題なかったのですが、こと海軍の贈賄事件ですから山本権兵衛も無傷ではいられません。その疑獄事件で民衆が激怒します。毎日のように国会議事堂前でデモが繰り返し行われ、前回とは違い、今回は貴族院議員はデモの中をフリーパスで通れますが、衆議院議員は襲われるという事態になっていきました。3月には山本権兵衛内閣は退陣に追い込まれます。首相の成り手が不在で、次はどんな内閣が出来るの?という感じでしたが、このチャンスを生かす勢力はいました。

 

 桂太郎が死亡した後に、桂太郎が新党を立ち上げていて、それを引き継いだのは加藤高明です。同志会の総裁を務めます。加藤高明が元老と組んで、このチャンスに奇手を放ちます。目的は政友会と海軍を叩きつぶすことです。無能ですが、なぜか世論に人気のある大隈重信を引っ張り出して、首相に据え、与党は加藤高明が率いる同志会。閣僚はほとんどが、原敬に潰された第3次桂内閣の面々という布陣で、総選挙に臨みます。結果、総選挙で圧勝し、政友会を初の第一党から転落させます。そして、大隈重信内閣では陸軍の悲願である、二個師団増設を国会で通し、実現させます。大隈重信は何の役にも立ちませんが、世論には人気がありました。民衆とは移ろいやすいもの。原敬を応援していたかと思うと、汚職が見つかれば、公然と反旗を翻し、反対の投に投票する。まるで振りこのような現象でした。これも、元はと言えば、民衆が決めたことであり、民主主義の基本とはいえます。ただ、どちらも予算分捕り合戦の中、どちらが民衆を味方にするかで決まっているので、元はと言えば、どちらが日本国民にとって良いことなのかが曖昧です。その時の空気で態勢がガラッと変わるので、何とも言えない感じです。特に無能な大隈重信を立てることによって、投票を獲得できるという手法は現在でも通用するマニュアルなので、これはどうかな?とは思います。

 

 こういう中で、日本は第一次世界大戦に巻き込まれていきます。その模様は次回に。