『努力はしたんだ。しかし、大抵の努力は報われない。』

 

 この言葉は直木賞を受賞した作品、『私が殺した少女』の中のセリフです。序盤のシーンで探偵の沢崎が欲したセリフです。30年以上前の話ですが、この時、このセリフが僕には妙に刺さりました。というのも、それまでの若かりし僕は努力をすれば報われると信じていたからです。努力をすれば、大抵のことはできると思っていたのです。そのこと自体は間違っているとは思いませんが、ただ、現実的には努力をしたところで結果が出ないことが多いというのは経験則でわかります。努力をしたというところで、必ずしも成功するわけではありません。それを認めるには、それを受け入れるにはたくさんの努力をしないと分からなかったことかもしれません。でも、現実は結果に対しては全ての努力が報われるわけではないということは通説になっています。現在では努力をして報われた人は運がよかったという言われ方もします。人間は不平等に作られているもののようです。30年以上も経過すると、それらを裏付ける研究も進んでいて、様々なことがわかってきています。生まれ持った才能、身体能力、生活環境、親の影響、等で、個性が決まってくるのと同じように、才能がある人に勝とうとしても、そういう人も努力しているわけですから、その差は縮まることはないのです。しかも、努力をするという能力も才能のようで、DNAレベルで努力が出来る人とできない人が決まっているようです。努力が出来る人というのは一種の才能だということもわかっています。そうなると、生まれた瞬間から、DNAレベルで才能が決められてしまうので、どう、あがこうと難しい状況になるということなのです。その後の環境も大事です。裕福な家庭に育てば、ある程度の自由がありますが、経済的に困窮している場合は、満足な教育の機会を失われるので、せっかくの才能も発芽せずということもあります。また、親の影響も大きくて、親が自由な発想を持っている場合は伸び伸びと育ちますが、成績が良くないと褒めない結果主義の親ですと、その子供はきついでしょうネ。結果主義に毒されると、結果が出ない場合は人格否定する親も少なくないからです。こうなると、そういう子供たちは深い傷を負うことになります。生まれた時から才能がある程度決まっており、その後の家庭環境や親の影響でまた変わっていくわけですから、悪い方に出てしまうと、努力はするだけ無駄という発想になりかねません。では、努力をしなくても良いのか?となると、それは僕は違う気がしています。なぜかというと、結果などどうでもよいと僕は思っているからです。

 

 結果でしか判断できない人は心が貧しいと僕は思っています。一例をあげると、サッカーワールドカップ2022の時に日本代表は強豪国、ドイツ、スペインに勝ちました。この時森保監督は強豪国に勝てたということの結果で、名指揮官と祭り上げられました。しかし、アジアカップの2回、東京オリンピックと1度も優勝したことはありません。近年行われたアジアカップでは敗退して、森保監督はダメ監督と言われています。実は、森保監督の采配は一貫していて、何も変わっていないのです。一貫してダメなのです。しかし、強豪国に勝ったときは名指揮官と祭り上げ、負けたら、ダメ監督というのはどうなのか?森保監督は一貫して、ダメな監督なのですが、結果で左右されているというのが面白いところなのです。逆に言うと、現在の日本代表メンバーは層が厚く、レベルも高い選手ばかりです。それらをもってしても勝てないのだから、相当なヘボ監督であることは間違えありません。なのに、世間の評価は結果いかんで違っています。ですから、結果だけで判断するという人はレベルの低いダメな人だと僕は思っているのです。結果はあくまでも結果で、内容を見ていかないといけないことだと僕は思っています。結果が出ない時はどうやったら、上手くできたのかの分析をして、どこがダメだったのか、回顧して、反省して次につなげるという思考が当たり前のことだと僕は思っているのですが、どうもそうではないらしいというのが世間の常識のようです。なぜかというと、結果のみで判断されるからです。結果なんかは運次第だと僕は思っていて、運も実力のうちという考えは間違っています。運はそう簡単には味方してくれはしません。結果至上主義、評価主義が行き過ぎてしまうマインドになっているのは本当にヤバいことです。これはアメリカイズムが浸透している結果だと思うのです。

 

 アメリカイズムでは努力すれば成功すると信じている人が約75%います。それとは別にヨーロッパではどうでしょう。フランス人は25%。勤勉なドイツ人でも50%です。成功するのは運次第という考え方がヨーロッパでは一般的なのです。ですから、社会構造的に福祉が充実しているのです。運がよかったから成功しているのだから、そういう人たちは運が無くて成功できなかった人たちに施さなければいけないという社会通念があるのです。アメリカとは真逆です。アメリカの保険事情を少しでも知っていればわかると思いますが、チャンスは平等に与えるが、あとは努力で勝ち取れというのがアメリカイズムです。ですから当然、貧富の差は激しくなります。収入の格差が当たり前の社会構造ですから、それはアメリカの文化ですから、まあ、正しいとか間違っているとかは考え方次第なのです。ですが、当のアメリカのこのアメリカイズムが原因で悲劇が多発し、社会問題化していることもあるのです。で、そもそも日本は明治維新の時にヨーロッパをモデルに社会構造をつくり直した経緯があるので、福祉が手厚い社会になっています。ところが、敗戦国となり、アメリカイズムが日本にどんどん侵食していき、現在ではアメリカ型の評価主義、結果主義のマインドがどの企業にもまん延しています。結果が正義となると、勝てば官軍。偉い人は罰せらない、という不公平な世の中にどんどん傾斜していくようになっていきます。そうなると、努力しなくても、上手く立ち回るだけで出世していく輩は出てきますから、必然的に全体的に企業の力は弱まっていくという流れになってしまいます。株価は上がっても、従業員の給与は上がらない。上の人が私腹を肥やしているわけですから、どんどん格差が広がる一方です。そういう世の中になれば、未来は暗いと思うのは当たり前です。でも、どこかで修正しなければいけないけど、どこを修正したら良いかわからない、やり場のない思いがこみ上げてきます。努力しても報われないのならば、どうしたら良いのか?昨今、親ガチャとか、毒親問題がよく言われますが、そういう親もおかしなマインドに侵されてしまっているので、悪気があったわけではないのです。でも、結果的に子供達を追いこんでしまってます。そこに刃が向いたとしても、何の解決策にもなりません。誰も得しないし、誰も幸福にはならないループは現実として起きている事象です。そこから抜け出すにはかけられている呪いを解かなければならないのですが、なかなか難しいことでしょう。始末に負えないのは仮に親の呪いが解けたとしても、また、待ってましたと、別の呪いをかける詐欺師がうようよいるのも現実なので、まっとうに生きていくということは非常に難しいことです。自分自身で信念を持たないとやられるという状況になっていると僕は思うのです。実は、そういう信念の中に努力するということは大事なことだと僕は思っているのです。

 

 実は努力というのはどこに向けられているモノなのかということが大事になっていきます。これは発想の転換です。努力するのは他者との競争なのか?評価なのか?結果なのか?僕は違うと思っています。なぜならば、他者の方が才能やスキルが上ならば、他者も努力をしているのですから、一定のレベル以上の話ですと、結果はおのずとわかります。基本的に、勝つことと、努力するということはイコールではありません。勝つためには戦略ありきですし、戦術に沿った鍛錬は必要です。そういう鍛錬を努力というならば、そうだと思うのですが、僕は根本的に違うと考えています。なぜ努力をするのか?それは努力をしなかった自分と、努力をした自分との問題であると考えています。つまり、努力とは自分との戦いであると思うのです。努力を怠れば、結果はおのずと遠くなるのは当たり前です。ですが、自分の能力を100として100出し切った時は、それだけの準備と努力をしてきたら、結果などどうでもよくなるものです。人事を尽くしたので、あとは天命を待つという心境になります。また、出た結果に対しては効果など微塵もありません。それだけ努力できたのか?ということなのです。努力の量や質は個人差が当然あります。それは才能と同じです。ですが、自分でやり切れたかどうかということが問題になっていくのです。つまり、自分に克てたかどうか…サボりたいとか、休みたいとか、眠いとか、キツイとか、苦しいとか、そういう類の努力の障壁になる誘惑に勝てるかどうかなのです。自分に勝てた場合、レベルが上がると思って良いと僕は思っています。それが成長するということだからです。成長する為には痛みや苦しさを伴うものです。自分を出し切る、全力で取り組む、全力で努力するということし続ければ、自然と結果や、評価などどうでもよくなります。それは人としての器を広げていき、人格をより高い次元にもたらす作用を生み出すからです。努力をするということは必ずしも無駄ではありません。逆に努力をしてこないと、どんどん負の連鎖に苛まれることとなるでしょう。なぜならば、成長しないで年齢を重ねることtになるからです。自分に負けっぱなしの人がどうなるのか?少なくても、今生での生きる目的は果たせないと僕は思っています。

 

 他者との比較、他者との競争、に努力をするのならば、相手を見てした方が良いと僕は思っています。ですが、努力の本質は自分に勝てるかどうかという個人的なことです。自分に克っていれば、結果がどうであれ、後悔はありません。悔いのない人生を送るにはいつも全力投球を心がけることだと僕は思っています。努力はその延長線上にあります。自分に負けっぱなしですと、生きている意義はありません。成長しないからです。ですから、努力は必要なことなのです。努力は必ず報われるかは、考え方次第だと思います。成功するからという単純なことではありません。そんな低レベルの次元の話でもありません。努力はあくまでも自分との戦いですので、報われるかどうかはどうでもよいことだと僕は考えています。努力は自分自身の成長の為に行うことだと僕は思っています。