前回までのお話で、やっと桂園時代という議会を無理くり安定させた時代が来ます。でも、それも13年しか続きません。終止符を打ったのは大正政変という事件ですし、その後、第一次世界大戦に行きますが、そんな感じでフワッと過ぎるのはどうかと思います。というのも、立憲政友会というものが、現代の政治の悪いところ全部のせの政党であり、その発端の話をしていけば、現代社会の政治のことへの理解が深まると考えます。というのも、何事にも初めがあって、この初めがおかしなところから始まってしまい、それが現代まで通じてしまうのが非常に愚かです。どの時代でも修正が効かないという愚かな歴史の連続が今でも続いているのです。そういう意味ですと、原敬という御仁は大悪党です。こいつが無茶苦茶やったことが正当化され、今日に至っているのは本当に愚かなことだと思うのですが、明治時代末期からそれらに騙されている国民はどうなのか?と思ってしまいます。歴史教育として、この時代の愚かな所業をきちんと説明しない限りは、歴史に学んで、よりよい社会をということはできなくなります。残念ながら、現代の歴史教育においてはこの事案がさらっと流されています。そこはきちんと丁寧にお話しようと考えています。実はこの時代が凄く重要であり、分岐点でした。そして日本の歴史はこの時点から悪い方悪い方、ダメな方、ダメな方に向かっていきます。ですから、歴史的事件ですと、日露戦争後がピークだったというのはそういうことなのです。ですが、その萌芽は日露戦争以前からありました。ことの発端は伊藤博文が作った立憲政友会です。明治維新以降、伊藤博文は数々の功績を上げ、日本のために頑張りました。しかし、晩年は日本をおかしな方向に導いてしまったのです。その辺の経緯をお話しします。

 

 桂園時代の前の政治体制は凄くいびつです。薩長藩閥政治と言われていますが、全権を握っていたわけではないことは前回の議会の不安定さでお分かりになるかと思いますが、再度説明します。元老が行政、軍隊、宮中を掌握しています。これを藩閥政治と言います。しかし、肝心の予算は衆議院が握っていました。衆議院には自由民権運動の輩どもが選挙に勝ってしまい、元老の思うようにはいきません。予算は国家の意志であり、予算が通らないことには何もできません。ですから、議会は不安定になってしまっていたのです。ここで伊藤博文は考えました。じゃあ、俺も政党を作ろう!そして作ったのが自由民権運動の輩どもと伊藤博文子飼いの学歴秀才の官僚を混ぜた、立憲政友会です。この総裁を伊藤博文が務めれば、上手くいくと考えていました。伊藤博文は明治維新以降、数々の功績があるので、人気があると思われがちですが、30年以上、政権の中枢をになっていると、その辺の感覚がわからなくなっていったのでしょう。伊藤博文は人気が全くなかったのです。しかも残念なことに本人に自覚がありません。自覚がないどころか、俺は権力もあり、俺が上に就けば、人は勝手に俺の元に従うと勘違いしていました。立憲政友会の総裁の座に就いたものの、誰も伊藤博文の言うことなんか聞かず、滅茶苦茶揉める政党になっていました。伊藤博文の子飼いながら学歴秀才の官僚は伊藤博文の言うことは聞かないけど、虎の威を借りる狐のごとく振る舞い、自由民権運動の輩ども達の反グレ集団と厳しく対立します。この反グレ集団をまとめたのは原敬です。伊藤博文は立憲政友会をまとめるどころか、どんどん孤立していきます。さらに、元老達とも揉めだすのです。元老の山縣有朋を終始見下した態度をとり続けた伊藤博文と山縣有朋との対立です。結局、伊藤博文は日清戦争で得た朝鮮半島に飛ばされ、1905年、朝鮮総督になりますが、1909年(明治42年)に朝鮮統監を辞職した後、ハルビン駅において韓国の独立運動家安重根に狙撃されて死亡しました。この伊藤博文の暗殺により、朝鮮半島は1909年に日本に併合されることになります。

 

 伊藤博文が暗殺されたことにより、立憲政友会は西園寺公望が総裁になります。はっきりいって、西園寺公望は無能な人です。立憲政友会でも原敬の言いなりです。実質は原敬が立憲政友会を仕切っている状況です。一方で山縣有朋は後輩の桂太郎を引き立て、海軍、陸軍を掌握させます。西園寺公望も元老ですから、ここで談合政治が生まれます。これが桂園時代という時代になるのです。ここで談合していますから、議会は安定して動くことが出来ます。桂園時代、桂太郎が首相の時には外務大臣の小村寿太郎の活躍により、不平等条約の完全撤廃、日英同盟を結び、日露戦争には勝利しました。挙国一致で日本の栄光をもたらしていたのです。この桂園時代に立憲政友会のハングレ集団がなぜ、おとなしくしていたのかというと、原敬がとんでもないことをし始めたからです。それはバラマキ政策です。

 

 当時、我田引鉄という言葉が流行りました。我田引水ではありません。我田引鉄です。鉄道を利権の対象にしたのです。わざわざ、自分の地盤に鉄道をひくということが流行りました。これを積極的に行ったのが立憲政友会です。日露戦争前から始まっていたこの政策、鉄道を選挙区に引くことにより、利益をもたらそうということです。もちろん費用は国の税金です。ですからバラマキ政策なのです。自分の選挙区さえ潤えばよい、その為に国費を使う、当然潤えば、選挙に勝てるという現代でも行われているシステムです。この当時からこんなことを思いついて、原敬は実行していました。日露戦争後はそのやり方が定番となり、朝鮮半島を守備するにも、対ロシアの復讐戦に備えるためにも軍備費の増強は当然のことですが、そこにお金を回さずに、バラマキ政策を推進していくという流れになります。これを推し進めたのは反ぐれ集団のドン、原敬なのです。こういう利権政治の初めは原敬がやり出したことなのです。反グレ集団がおとなしくなるもわかりますよね。原敬に気にいられれば、予算を回してもらい、自分の地元にバラマキが出来る。ですから、反グレ集団は誰も原敬に逆らえなくなります。原敬自体もインテリヤクザですから、そういう仕切りは上手く、日本の将来や情勢には興味がありません。富国という名のもとに自分の都合の良いバラマキを推進していくのですから、選挙に強いのもうなづけます。これを踏襲したのは田中角栄です。田中角栄もそんなことばかりしてましたが、もともとは原敬が始めた利権構造です。大正時代にこういった利権構造が政治と結びついていたのです。それが現代まで続いているということに愚かさを感じますね。日本という国のことなど考えずに、私腹を肥やす政治家はここからが原点なのです。

 

 日本の情勢としては朝鮮半島を守る軍事力、また、対ロシアの復讐戦に備えるという意味で、軍備費の増強を政府に依頼します。しかし、政府は原敬の推すバラマキ政策を行っていますから、予算がありません。結果的に、軍事費を削るという事態になっていきます。事実、バラマキ政策をやりすぎて、増税も行っています。こういう流れから、大正政変になっていくのです。わずか13年ですが、桂園時代の終了です。そのお話は次回に。