ナポレオンは小ピットのいるイギリスとの対決です。決戦の地は、スペイン沖トラファルガー、英領ジブラルタル要塞の目の前でした。ネルソン提督率いる英国艦艇は、フランス艦隊に殴り込むようなかたちで決死の突撃を敢行します。この時代の艦隊戦は、敵の船に体当たりし、水兵同士が白兵戦を行います。ネルソンは狙撃されて戦死しながらも、英国艦隊は仏西連合軍の艦隊の三分の一を壊滅させました。ここに、大英帝国の不敗の体制が築かれました。ナポレオンはブリテン島に上陸できない以上、勝ちはありません。では、その瞬間に何を考えたのか?『向こうもこちらに上陸できなければ勝てない』です。そこで大敗から一ヶ月後、ナポレオンはハプスブルク家の領土である今のチェコに侵攻して英国の手下の露墺両国をおびき寄せ、粉砕しました。アウステルリッツの戦いです。東ローマ帝国の後継者を自任するロシアのアレクサンドル1世、西ローマ帝国の冠を戴く神聖ローマ帝国のフランツ二世、そしてナポレオンの3人の皇帝が会したので、三帝会戦ともいいます。

 

 そもそも、なぜナポレオン軍は強いのか?それは敵の三倍の速度で動けるからです。三帝会戦に限らず、フランスに負け続けたヨーロッパ各国は『ナポレオンがどの方向から攻めてくるのかがわからない。』という状況で戦っています。ではなぜ、そんなに速く動けるのか?革命に際し、フランスは徴兵制を導入しました。傭兵と違い、フランス国民は逃げ帰るところがないので、必死で戦うわけです。でも、それだけでは単なる精神論です。逃げ出されたら困る傭兵は軍楽隊の太鼓の音に合わせて『密集隊形』で戦います。これに対して、国民軍(共同体軍)であるフランスは、散っても戻ってこられる散兵戦術がとれます。『プロの傭兵の密集隊形 vs国民軍の散兵戦術』という構図はアメリカ独立戦争やフランス革命初期の干渉戦争でも見られました。結果はというと、アマの軍隊では、プロの傭兵に善戦するのが関の山です。ところが、ナポレオンという軍事の天才が加わると、一変します。砲兵の機動的運用や、ポイントの確保など、緻密さが違います。また、現代でも世界中の軍隊で使用されている『師団』という、一万人規模を基準とした軍隊の単位を発明しました。指導系統の徹底化が図られました。ヨーロッパ諸国はフランス革命・ナポレオン戦争の最中に、傭兵依存から国民軍に脱皮しようとしますが、なかなか上手くいきません。例えば、サッカーでも、シーズンの最中に個人技主体のチームから組織プレーのチームには変更できないようなものです。

 

 海のチャンピオンが大英帝国なら、陸ではナポレオンの独壇場でした。アウステルリッツの敗報に接した小ピットはヨーロッパ大陸の地図を指し、『そんなものは10年使えない!丸めて捨ててしまえ!』と絶叫したとか。ほどなくして、小ピットは亡くなります。天才軍人ナポレオンと不世出の政治家の一進一退の攻防は、幕を閉じたかに見えます。しかし、英国の内閣は小ピットの閣僚ばかりです。小ピットの路線を受け継ぎ死闘は続きます。オーストリアこそ脱落したものの、ロシアやプロシアとの第四次対仏大同盟は維持します。という感じで、何度敗れても、対仏大同盟を形成し続けます。

 

 1806年、ナポレオンは神聖ローマ帝国を公式にお取りつぶしにします。名称は、オーストリア帝国に変えさせられました。ついでに、ハプスブルク家当主で神聖ローマ帝国皇帝のフランツ二世は、オーストリア帝国の皇帝フランツ一世になります。うれしかったどうかはしりませんが、力関係からいって拒否はできなかったでしょう。ナポレオンは300諸侯とされるドイツ貴族も30数人に整理しました。そして、ベルリン勅令を発します。ヨーロッパ全諸国に『イギリスと貿易するな!』と大陸封鎖を開始したのです。しかし、イギリスも負けてはいません。逆封鎖で応じました。軍事力でお互いに手詰まりならば、経済的に音を上げたほうが負けだという対決です。1808年、イギリス陸軍のウエリントン将軍がスペインを奪いに行きます。真正面から戦って勝てないのなら、正面を避ければ良い。敵の弱点を細かく攻め、補給路を断ち、疲弊するのを待つ。敵の大軍が来たら恥も外聞もなく逃げ、引き揚げれば背後から攻撃する。このとき、『ゲリラ』という言葉が生まれました。陸でのナポレオンの優位も、徐々に絶対ではなくなってきます。

 

 1812年、大陸封鎖令を破り、イギリスと密貿易(というか、耐えかねて抜け荷をした)ロシアを懲罰すべく、70万の大軍を率いて、ナポレオンは進撃します。あっという間にモスクワを攻略して焼土にしました。ところが、これこそロシアの作戦でした。下手に図体がでかいナポレオン軍は補給が続かず、冬の寒さの到来に苦しみます。12月にはポーランドまで引き揚げましたが、ロシア軍は落ち武者狩りのごとく襲いかかってきます。兵力は出征時の十分の一にまで減ってしまいました。ナポレオン敗れたり!英露墺普、フランス以外の大国すべてが結集して、第六次対仏大同盟が結ばれます。西のスペインからはウエリントン将軍がフランス本土をうかがい、東のドイツ地方では連合軍がナポレオンと一進一退の戦いを続けます。ナポレオンの指揮は衰えを見せず、四万の兵で十万の敵を打ち破ったりしています。しかし連合軍は数にモノをいわせ、最後はパリを攻略しました。フランス国内でも対仏大同盟に同調する勢力が出てきます。フーシェが動き、軍の一部も同調し、ナポレオンは皇帝から退位させられ、タレイランが和議をまとめました。こうしてナポレオンの政権は崩壊し、ブルボン王朝が復古します。

 

 ここで凄く疑問に思うことが、ナポレオンはなぜ世界征服を目指したのか?ということです。そもそも、フランスが革命により大混乱したことを終息し、フランス国内をまとめていればよいものを、武力で近隣諸国を制圧しに出かけます。イギリスを倒したいのは長年の歴史の上でわからないことではないのですが、ロシアまで攻め込むのは?という感じです。明確な回答はありませんが、皇帝になったぐらいから、独裁者としての悪い面が出てしまったものと推察されます。良い塩梅でゆるりとしていれば、長期政権を行うことは可能でしたが、天下無敵の称号を自覚してしまうと、世界制覇を企むモノなのでしょう。途中からこの流れは引き返すことが出来なくなり、暴走が止まらず、結局は敗戦によって、今まであった功績はすべてパーになってしまうという人間の性というか、よくあるパターンに陥ってしまったように見えます。落としどころを決めていなかった。戦争の手打ちを考えていなかった。これがナポレオンの犯したバカな点です。引き際を心得ていれば、こういう結末にはならなかったのに、最後は身内から刺されるような格好で幽閉されてしまいます。ですから、なぜ、日本でナポレオンが人気なのかは僕にはわかりませんが、快進撃の部分だけ観て、凄いと言っているのはもうどうしようもないので、おいておいて、ナポレオンの初めから最後まできちんと把握して、なおナポレオンは凄いと思うのならば、僕にはその気持ちは理解できません。ちょうど良く、良い塩梅で止めていれば、また独裁者ですから、そういう決断もできたはず。それをしなかったのは愚か者であると僕は考えています。時流に乗ったのは良いのですが、やりすぎてしまった上に滅ぶというのは、どうにかならないモノなのかなと個人的には思いました。

 

 さて、ナポレオン戦争後の講和会議、ウィーン会議が行われます。フランスは人材豊富なのか、負けたクセに有利に持っていく政治家が出てきます。名をタレイランと言います。この御仁お話をしますが、それは次回に。