日本は明治40年、1907年までは外交では大勝利を上げる成功をおさめました。日清、日露戦争は大勝利ですし、江戸時代に結ばれた不平等条約も撤廃しましたし、日英同盟も結びました。アメリカとも友好関係を作り、きちんとした協定も結んでいます。外交的には大成功なのですが、内政はボロボロです。特に、自由民権運動の輩どもや東大出の学歴秀才が無茶苦茶をしており、そういう輩どもを支持する国民が多数でしたので、こいつらが選挙に当選しますから、国会は特に衆議院が無茶苦茶しているという状況です。今回はそういった内閣がどうなったのかの経緯のお話をしていきます。

 

 帝国憲法以下では衆議院は大変な権利を保有していました。予算審議権です。日本を民主主義国家にするためには避けては通れないことです。帝国憲法を他国に見せたところ、一斉に反対されたのが、衆議院にこんな権利を持たすな!という点でした。そんなことをしていけば、憲法停止は必然だと言われました。その通りに実はなっており、明治から大正にかけて、内閣を保持することは凄く困難を極めたのです。そのシステム上の前提をお話しします。元老達は宮中、枢密院、貴族院、内務省、大蔵省、陸海軍を掌握しています。それに対して、衆議院は対抗しており、元老達が掌握している各省が衆議院に負けているという歴史です。というのも、衆議院は予算審議権を持っています。衆議院にとって都合が悪い政策が出れば、すべて予算を否決すればよいのです。凄い拒否権を発動しています。というのも、予算とは国家の意志であり、予算が全てのことを動かす、いわば血液のようなものだからです。予算が執行されなければ、内閣は潰れてしまいます。内政ではこの内閣が潰れるを繰り返し起こすことになっていくのです。それだけ予算を通すことは困難なのです。予算は国家にとっては非常に大事なファクターなのです。お金がなければ、何も動かないのは現在も変わりません。財布を握る権限を衆議院が握っていたのです。しかも、衆議院の8割強が、自由民権運動の輩や学歴秀才のバカ者ですから、訳の分からないことを主張するのです。主に、『減税しろ!戦争しろ!』です。これを支持した国民が多数だったので、マトモに機能させるために、賢明な元老がいたわけです。ただ、こういう輩ども達が衆議院の大半を占め、予算を通さない嫌がらせを繰り返すので、元老達も疲弊していくという状況でした。予算を衆議院が握るのは民主主義を行う上では重要です。しかし、選挙で通った代議士の大半が輩ですから、大変です。この時の政治家は物凄く苦労をしていきます。ただ、こうなることを想定して、帝国憲法内では首相指名の規定を作りませんでした。そこは慧眼です。自由民権運動の輩どもの中から首相が出来たら、日本は滅びます。そのことは想定していたのです。そういう前提で、内閣がどうなっていったのかをお話しします。

 

 簡単に言いますと、初期議会以来、ずっと混乱しています。

 

 第一次伊藤内閣・・・選挙は未実施。自由民権運動の輩がうるさいので、輩の長、大隈重信   

            を外相にすえます。

 黒田清隆内閣 ・・・ 事実上の自由民権運動の輩どもとの連立政権。ここでも大隈重信は  

             閣僚入りしています。

 第一次山縣有朋内閣・・・第1回総選挙が始まり、自由民権運動の輩どもの大勝。何とか予

             算を通すため、土佐派の板垣退助らを買収。何とか予算を通し退陣。

 第一次松方正義内閣・・・予算をめぐり大混乱。見かねた明治天皇が仲介を果たす。このま

             ままでは選挙に負けると思い、選挙に大干渉。しかし、自由民権運動の

             の輩どもが大勝。総選挙でも大失敗をして混乱は続きます。

 第二次伊藤博文内閣・・・元勲内閣。不信任と解散を繰り返します。時は日清戦争を始める

             かどうかの緊張状態の時。内閣解散と日清戦争開戦を同時に決めると

             いう混乱状態。日清戦争開戦がわかると、自由民権運動の輩どもは、

             一斉に賛成して、挙国一致の支持を受けます。内閣解散と開戦を同時

             に行うなど狂気の沙汰。これだけ混乱していました。

 第二次松方正義内閣・・・実質大隈重信も閣僚入り。で、大隈重信が必要な増税に反対して

             外相を辞職。結果、内閣総辞職となる。

 第三次伊藤博文内閣・・・この前ぐらいから、選挙に勝つために政党が出来ていきます。

             自由・進歩両党が増税には反対、解散。憲政党結成前に元老が降伏。

 

 元老はこの時にはもう疲弊しまくっています。選挙に勝てないので、衆議院が最大の抵抗勢力となり、無茶苦茶な主張をしています。増税をしないと日本は富国強兵は難しい。しかし、ロシアの脅威はひしひしと迫っている。ロシアとの決戦の前に何とか富国強兵はしたい。しかし、その為の資金作りのための増税は衆議院によって、自由民権運動の輩どもに邪魔されるという状況で、ほとほと疲弊したのです。伊藤博文は政党を作ろうと動きますが、一方で、元老から首相になるのは嫌だ!という気持ちが蔓延します。次の首相は誰にするのか?ということでは御前会議でも誰も手を上げない状況でした。首相になっても苦労するのは見えていますし、火中の栗を拾うのはもう嫌だ!という表れです。この時、伊藤博文は一度、自由民権運動の輩どもに政権をもたせることを主張します。それでは日本が滅ぶ!と誰もが思ってはいますが、反対すれば、お前がやれ!という展開です。元老達は伊藤博文の提案に黙りこくってしまうのです。そして、御前会議ですから、伊藤博文は『陛下、こういうことですので、ご承認を』といいます。明治天皇は公式文書でも残っているお言葉なのですが、『本当に、それで良いのか?』と言っています。言外には日本は滅ばないか?ということでしょう。明治天皇もわかっていたのです。ですが、明治天皇は自由民権運動の輩どもに政権を委ねる大命降下をします。さて、これでどうなったのか?

 

 第一次大隈重信内閣・・・組閣の段階で大隈重信と板垣退助が揉めだします。閣僚だけでな

              く、政務官レベルまで口をはさんでくる始末。組閣本部が5個もあり、

              全然組閣が決まりません。結局、数々の不祥事も発覚し、組閣が出来

              ないので、退陣しました。我欲丸出しの二人が利権をかけて争ってい

              るのは滑稽です。しかも首相の大隈重信は黒船以降の日本の最大の

              友好国であるアメリカに、アメリカがフィリピンを占領したという理由で

              宣戦布告をしてしまいます。アメリカ側もバカバカしくて取り合わないほ                          ど…。バカかこいつは?こんなのが早稲田大学の創設者なのです。バカにもほどがあります。外交が全く読めてませんし、時はロシアの圧力が増している時期。やはりどうしようもない人たちでした。私利私欲がですぎて、日本を窮地に追いやろうとしている輩たちであることがわかりましたよね。こういうことになると想定していた山縣有朋は密かに倒閣した後の準備を進めていました。よりちゃんとした安定した内閣を作らないということで、動いていたのです。

 

 第二次山縣有朋内閣・・・憲政党(板垣派)を取り込む。板垣退助は金で転ぶので問題なし。

              慎重な政権運営でしたが、伊藤博文の政友会結成をを見て意図的に

              退陣します。

 

 ここにおいて、ようやく、衆議院がおとなしくなりました。やはり、大隈重信に政権を持たせたら無茶苦茶になるというのがわかったようです。山縣有朋が退陣したのは謎ですが、ここから桂園時代が始まり、ようやく議会は安定していきます。

 

 第2次山縣有朋内閣が退陣した後には1900年に伊藤博文が創設した政友会で第4次伊藤博文内閣が発足します。ただし、伊藤系官僚と自由民権運動の輩どもがまだ対立し、貴族院は抑え込むものの、内紛が絶えなくて退陣しました。その後にできたのが第一次桂太郎内閣です。当時発足した時は2流内閣と揶揄されました。しかし、功績はずば抜けています。日英同盟の発足。不平等条約の撤廃。日露戦争の勝利。当時外相だった小村寿太郎の動きはすさまじく、過労死するほどの働きでした。この後、助けてくれた政友会に政権を譲渡します。のちに発足したのが第一次西園寺公望内閣です。主流は政友会。この時から、桂太郎と西園寺公望が交互に内閣を組織する為、桂園時代と呼ばれます。この時期は議会も安定していました。というか、安定化に向けてかなり強引なことをしていました。訳の分からないことを言う議員にはニコポンというニコッとしてポンと肩を叩くという情意投合を促します。それでもわからない議員は料亭に呼び出して、ウンというまでキスをし続けるという荒業です。こういう嘆かわしい努力の末に、議会を平穏にしようと努力していきました。

 

 しかし、この桂園時代も長くは続きません。伊藤博文は暗殺されますし、激動の議会はまだまだ続いていくのです。