1905年に日露戦争が終わり、ポーツマス条約を結び、日本は平穏な時期になります。とはいえっても、ロシアの復讐戦に備えなければいけないのですが、2年後にはその必要が無くなってきます。というのも、ヨーロッパ情勢が変わってくるからです。日露戦争前に大英帝国はフランスと英仏協商を結びます。そういう中で、ドイツとフランスはモロッコで対立します。ヨーロッパをひっかきまわしているのはドイツのヴェルヘルム2世。この御仁の陰謀がバレ始めていきます。フランスはドイツと対立し、イギリスはペルシャ、インド、清を抑えましたので、ロシアといったんは対立する必要が無くなります。ロシアはロシアで、ヴェルヘルム2世の陰謀で日アジアに目を向けたら、日本にやられてしまった。ロシアもドイツを憎みますし、やっぱりバルカン半島を勢力圏におきたいという野望にシフトします。そうなると、オーストリアは邪魔な存在。そういう各国の思惑があり、イギリスはロシアと協商を組みます。英露協商です。そうなると、露仏同盟と日英同盟が合体して、日本、英国、フランス、ロシアの4国協商が成立します。これが1907年のことです。この協商によって、ドイツやオーストリアはヨーロッパで囲まれてしまうという状況になりました。下手の横好きでやっていたヴィルヘルム2世にとっては最悪な状況になりました。ここで、特筆することは4国協商で日本だけが安全地帯にいることです。ヨーロッパで起こる揉め事には直接被弾しないということなのです。ヨーロッパの揉め事が始まっても、静観して見ている立場になります。一時の平和ですが、日本が一番有利な立場になっていきます。四国協商の成立により、ロシアの復讐戦はなくなりました。ヨーロッパだけではなく、アメリカにもしっかりと道筋を作っています。1908年ですが、高平・ルート協定をアメリカと結びます。日本の日露戦争の戦利品である、南満洲、朝鮮半島のにおける地位と当時アメリカが占領したフィリピン併合を相互に承認し合うという協定です。アメリカは当時は小国ですし、日本を相手にするということは世界を相手にすることだということがわかっていました。なので、日本側に圧倒的有利な協定を結んだのです。これからみても、外交上、日本は圧倒的に有利な立場になったのです。そういう外交上のことをやりながら、日本は平和な時が来たのです。この時が日本のピークだったのです。

 

 日露戦争に勝ったことで、日本の地位は向上します。今までは各国に日本は公使館しか持てなかったのですが、大使館をもてるようになります。当時、大使館をもてるということは大国扱いされるということです。この現象が相次ぎます。ヨーロッパ列強が日本を大国と認め初めて、実力を認識し始めていったのです。日清、日露戦争に日本は勝ちましたが、日本は国民全体で戦った、国民戦争だったのです。そうなると、国民の方も、権利をよこせ、政治に参加させろ!選挙権をよこせという、流れになっていきます。このあたりから、大正デモクラシーは始まることになります。不幸なことに、せっかく、平和になったのに日本政府内で、元老が対立してくるという事態になっていきます。このあたりから、雲行きが怪しくなっていきます。

 

 日露戦争までは元老は一枚岩で、がっちりと政府や陸軍、海軍を抑えていました。元老が賢明な判断をしていたので、おかしな選択をしていなかったのです。自由民権運動の輩の筆頭である、大隈重信は最大の友好国である、アメリカに宣戦布告をしようとしたり、板垣退助はいくらでも買収が可能なので信用できない!という感じで、こういう狂った輩たちから日本を守っていたのです。ですが、ここで、元老筆頭の伊藤博文と山縣有朋が対立が始まってしまうのです。伊藤博文は政権を安定させる為には政党が必要だと考えます。自由民権運動の輩が衆議院を過半数を維持しているので、予算が通りません。こいつらに対抗するには政党をつくって地盤固めをしなければならないと考え、政友会という政党をつくります。これにより、民主主義政治を促進させていこうという狙いがありました。しかし、山縣有朋は自由民権運動の輩どもに、政府機密、特に軍事機密を公開するわけにはいかない。そこは厳しく情報統制をするべきであるし、まだまだ、民衆の政治参加を促進する時期ではないという考えです。実はどちらも正解なのです。ダメなのは自由民権運動の輩とそれに投票する国民なのです。しかし、この対立は続きますし、伊藤博文は1910年、朝鮮併合により、朝鮮総督に追いやられ、暗殺されてしまいます。では、山縣有朋の方針がそのまま適合できたのかというと、違います。この後、大正デモクラシーが起こり、自由民権運動の輩どもが政府内部に関わってくることになります。この流れが敗戦まで続きますので、日本は徐々におかしくなることになるのです。

 

 これは政府内のことだけではなく、陸軍、海軍にも醜い争いの火種になります。トップの2人が揉めだしましたから、当然、陸軍海軍も割れていきます。それは帝国国防方針で意地の張り合い、というかどちらが予算を分捕るかの戦いが始まるのです。陸軍としては、ロシアの復讐戦に備えなければいけない。さらに、南満洲、朝鮮半島を守らなければいけない為に、早急の軍備拡張が必要です。そこで、予算をもっとくれ!と騒ぎ出します。一方、大量の予算を陸軍に取られることを不服に思った海軍は仮想敵国をアメリカに設定し、軍拡をする為に、予算請求をします。この時、最大の友好国アメリカを仮想敵国にしているのですから、おかしな話です。これが敗戦までずっと続くことになるのです。対アメリカ戦が回避できなかったのは、40年近く、アメリカを倒すために予算を取り続けた海軍はいざというときに、アメリカとはやらないという選択肢が無くなっていました。決めたことだからを後生大事に保ち続けました。ここで当時の山本五十六とかが辞職して、やりません!という気概を見せれればよかったのですが、山本五十六という男、そういう賢明な人間ではありませんでした。亡国の志士です。この時の国防方針を実際に行ったら、負けたという流れになるのですから、皮肉なものです。止める人はいなかったのか?という思いですが、自由民権運動の輩や東大卒の学歴秀才の輩どもが政府内にうようよいましたから、そういう賢明な判断はできません。そういうことも含めて、明治40年は日本にとってはピークであり、この年以降、どんどん落ちていくのです。これが日本の近代史の悲しいところです。たた、急に堕落するのではなく、徐々に世代を変えて、悪くなりますから、どうしようもありません。これ以降、何やってるの?という歴史の連続ですから、覚悟しておいてほしいと思いますね。