日本は日清戦争に大勝利をして、1895年4月17日に下関条約を結びます。日本はロシアが干渉してくること見越して、多めに清に吹っ掛けていました。やはりというか、4月23日に露独仏三国干渉がありました。1週間で来るのですから、イキってます。三国干渉では、『日本の友人として勧告する。遼東半島は清に返せ。それが極東平和のためだ』とキレイごとを言ってきました。日清戦争終結直後ですし、日本はこの3国、1国にも戦争では勝てませんので、泣く泣く、この三国干渉を受け入れます。しかし、遼東半島を清に返す代わりに賠償金の額を増やしています。その賠償金を使って、日本は更に富国強兵に突き進みます。三国干渉が行われた時に黒幕を日本は読み違えていました。日本はてっきりロシアであると思っていたのです。ですが、露仏同盟があるから、フランスがついてくるのはわかるけど、なぜドイツが?という疑問がありました。どうもこれはおかしいぞということで、日本は調査をし直します。教科書ではなぜ、ドイツがついてきたのかの説明は全くありません。これは不思議に思った人はかなりセンスが良い。その理由は、当時の世界史を熟知していれば、当然のことなのです。ロシアがヨーロッパに進出するのを防ぐためにフランスとロシアに挟まれたドイツが、ロシアに日本をエサにして、目を向けさせるように仕向けたのです。当時の日本の元老や高官はドイツが黒幕だということがわかっていました。ちゃんと調べればわかることですから。しかし、それを言いませんでした。なぜかというと、自由民権運動の人達に知られれば、ドイツに戦争しろ!と大騒ぎになるからです。頭のおかしい連中が、衆議院を握っているのですから性質が悪いです。ですから、表向きは、今はロシアに勝てないから、臥薪嘗胆をし、いずれはロシアを叩くというような仮想敵国をロシアに設定して、富国強兵に励もうと!いう流れに持っていったのです。三国干渉はドイツが黒幕という事実が未だに一般化されないのは日本史しか研究していない研究者が多いということと、その人達の頭の中身は自由民権運動の人達と大差ないことが証明されています。ちなみにですが、この三国干渉に対して、日本に味方すると言ってきた国がありました。イタリアです。しかし日本は丁重にお断りしています。この時の判断は妥当ですが、昭和になると、この手の誘いに乗るところが怖いことなのです。実際に乗ってますし…

 

 三国干渉ではキレイごとを言っていたのに、清が眠れる獅子ではなく、ただのブタだと分かると、ヨーロッパ列強の清国分割が始まります。1896年、ロシアはロバノフ・李鴻章秘密協定(第一次露清密約)を結びます。まあ、李鴻章はロシアに賄賂で買収されて、清国を裏切っています。売国奴が中枢にいるわけですから、清朝末期状態です。1898年には遼東半島南端の旅順、大連を粗借地とします。租借地とは表向きは借地ですが、その土地は治外法権であり、いつ返還するかは決まっていない土地です。料金も発生しません。つまり、占領されていると言っても良い土地です。これで、ロシアは凍らない港を手にしたことになります。1897年、ドイツは膠州湾を占領し、租借地にします。1899年、フランスは広州湾一帯を租借地にします。1899年、イギリスは九龍半島、威海衛を租借地にします。この波に乗り遅れたアメリカは中華大陸を解放しようという宣言を出します。ジョン・ヘイ門戸開放宣言です。黒幕はイギリス商人なのですが、当時のアメリカの言うことなど誰も聞きません。こんな状況に陥った、清国を見て、朝鮮は1896年、国王がロシア大使館に逃げ込みます。国王自ら、朝鮮を捨てて、わが身可愛さにロシアに逃げ込むという事件が起きています。国王が売国奴なのですから、朝鮮はどうしようもない国ですね。こういう清国の状況、列強のやりたい放題に清国の一部の過激派が怒りだします。そこで起こったのが、1899年の義和団事件です。

 

 義和団という団体はカルト宗教団体です。この義和団が乱をおこします。1899年のことです。ここから戦地は拡大して、大争乱になるのが1900年に起きた北清事変です。日英米仏露独墺伊の8か国連合出兵と銘を打っています。しかし、実際はどうだったかというと、ほぼ日本軍がこの乱を鎮圧しています。清国一般人は日本軍がいるところが一番安全だと言ってました。というのも、イギリス軍、フランス軍は略奪のし放題だったからです。ロシアはというと、当然のように略奪行為はしています。これはいつものことです。おとなしくしているわけがない。ロシアの法則通りの行動をしています。ここで日本軍の活躍はヨーロッパ諸国に知れ渡ることになります。特にイギリスは無関心だったのが、これは日本は使えるぞと言うように日本に興味を持つきっかけになる事件でした。1901年に北京議定書で乱は終結。この時に、日本軍の駐留が認められます。この乱のどさくさに紛れて、ロシアは行動を起こします。乱を鎮圧することはハナから考えていないような行動です。なんと、ロシアが満洲に居座ってしまうのです。これもロシアの法則が発動です。まさに火事場泥棒ですね。1900年4月に、ロシアは清とまたしても密約を結び、満洲全域にロシア軍が駐留してしまいます。事実上の、占領です。北清事変の真っただ中での出来事ですから、ロシアの法則通りですね。このロシアの行動に危機感を覚えたのが大英帝国です。

 

 この時代、大英帝国とロシアは張り合ってました。ロシアの目論見は凍らない港を確保することです。これは長年の悲願でした。現在でもそうなのです。それを邪魔していたのが大英帝国でした。クリミア半島やペルシャ、インドとことごとく、ロシアの野望を阻止していたのが大英帝国でした。そこで、ロシアが清を占領して、ロシアの悲願を叶えさせるわけにはいかなくなったのです。英国としてはどうすればよいか?一応、英国も香港を拠点にはできますが、そこから北上してロシア艦隊と対峙するには大変です。そこで、白羽の矢が立ったのは日本です。英国としてはまず、ロシアに日本をぶつけて、時間稼ぎをして、そしてロシアに対峙しようという考えでした。しかも、日本はなかなか使える国と認識していたのでしょう。日清戦争前の不平等条約改正の時のくだりも、なかなかアジアの国としては優秀だと思っていたのかもしれません。清に戦争で勝ち、北清事変での日本軍の働きを見ていると、これは使えると考えたのです。英国は1902年に日本と同盟を結びます。日英同盟の誕生です。英国は過去100年以上、栄光の孤立と言って、どこの国とも同盟を結びませんでした。足手まといになるだけという考えだったのです。しかし、今回の極東の事案に対して、日本を味方にすることは利しかないと判断し、栄光の孤立を捨てたのです。これは歴史的快挙なのです。それとともに、いかに当時の日本が凄い国であるということがわかります。日本という国は知名度をグッと上げることになるのです。

 

 日本にとって朝鮮半島の北緯39度線より南下された場合は危険事態であり、日本の防衛線の限界を突破することになります。朝鮮半島の北の満洲にロシアが居座ってます。しかも、朝鮮国王が親ロシア派であり、ロシアにべったりですし、いつでも朝鮮をロシアに献上する気でいる売国奴です。こうなると、ロシアの圧力が日増しに日本にかかってきます。日本はこのロシアの圧力をどうすればなくすことができるのか?それは戦争しか手がないのかもしれません。実際に、こういうロシアの圧力によって日本はロシアと交渉をしますが、まるで取り合ってもらえません。ロシアはますます圧力を高めていきます。そういう流れで、日本はロシアと戦わざる負えなかったのです。それが日露戦争の勃発になります。その模様は次回に。