朝鮮半島をめぐり日本と清は膠着状態。朝鮮半島を舞台に日清代理戦争が行われてきました。日本は清と天津条約を結び、何とか、引き分けに持ち込み、抜き差しならない状況は続いていました。天津条約では朝鮮に出兵する時はそれぞれ、通告することを旨とした条約で、基本的には両国の軍隊は朝鮮半島から撤兵するという決まりをしました。次に何かあれば、開戦という緊張状態です。そういう中で、朝鮮半島にまたもや火種が勃発します。1894年に東学党の乱が朝鮮半島で起きてしまいます。東学党は宗教団体とも、農民反乱とも言われていますが、定かではありません。で、朝鮮政府は自国でこの反乱を鎮圧できないので、清に鎮圧を要請します。清は軍隊を派遣して朝鮮半島に乗り込みます。この時、清は日本に通告せずに行いました。これは天津条約違反です。まあ、清にとっては条約を守る気はさらさらないのでしょう。日本もこの情報を得て、朝鮮半島に出兵し、にらみ合いが続きます。この時の日本の国内事情は大変でした。

 

 第二次伊藤内閣が発足していたのですが、閣僚は全員歴史上の人物であり、元勲ばかりです。元勲内閣と揶揄されました。しかし、衆議院は自由民権運動の人々が多数派でしたので、内閣を潰しまくるという行動に出ます。内閣、政府、官僚、軍隊を掌握している元勲たちですが、衆議院が拒否するので、法律や予算が通りません。多数派の自由民権運動のヤツラは『税金を安くしろ!戦争しろ!』という意味の分からないことを叫んでいました。その2つが両立しないのがわからないようです。ここで、凄いのは帝国憲法にはこういう事態も想定して内閣総理大臣の任命方法を記載していないということでした。ですから、伊藤博文が総理大臣なっているわけです。日本国憲法ですと、内閣総理大臣の任命方法の記載がありますから、その通りにしてしまうと、自由民権運動派から内閣総理大臣が出てしまいます。そうなると、日本は滅びます。こういう事態を想定していたことが凄いところなのです。最悪の想定をしていたということです。1894年5月30日、内閣弾劾上奏案が可決します。つまり、今で言うと内閣不信任案です。ここで、伊藤内閣を潰すようにしてしまいます。清との緊張状態の中で、これです。その3日後の6月2日に閣議が開かれます。元勲の山縣有朋枢密院議長も出席したなかで、衆議院の解散と清との開戦を決定します。衆議院解散はヤケクソです。この国難の中、どうにでもなれ!という感じでした。解散と開戦を同時に決定するとはすごいことですよね。通常ではありえないことです。でもそれだけ追い込まれていたのも事実なのです。この様子は清にとっては日本は国内が滅茶苦茶であると判断したようです。

 

 で、開戦間近のこの時に、外務大臣の陸奥宗光は大きな仕事をします。俗に、陸奥宗光の凄腕外交と言われています。あの大英帝国を恫喝しています。どういうことかといいますと、英国大使に向かって、『これから日本は清と戦争をします。日本は国際法を守り、英国居留民の生命と財産を守るつもりでいます。でも、不平等条約を日本は受け入れてはいますが、この条約の改正にアメリカは乗り気ですが、いつもイギリスが反対しています。つまり、イギリスは日本を文明国と認めていないということです。もし、いまだに、日本を文明国と認めていないのならば、日本は文明国の証である国際法を守る義務がないことになります。』と言いました。 つまり、日本と清が戦争をしたら、英国居留民の生命と財産は知らないよ!それが嫌なら、不平等条約を改正してね。という恫喝です。これには英国も飲まないわけにはいきませんでした。そもそも、不平等条約で散々美味しい思いをしていたのですから、これで終了という感じでしょう。一番反対していた英国が賛成すれば、他の国も不平等条約の撤廃には賛成します。1894年7月に領事裁判権が撤廃されます。この日清戦争開戦前のどさくさに、とんでもないことをする、陸奥宗光外務大臣は外交官の鑑でしょう。

 

 で、日清戦争開戦です。7月23日、朝鮮王宮を占領。逃げていた大院君をつれ戻して、傀儡政権を樹立します。これ、あっさり1日で終了です。7月25日、豊島沖海戦。これも楽勝です。この日、日本が清と開戦するという情報が日本中に駆け巡ると、反対していた自由民権運動派で固められている衆議院が一斉に政府を支持し、一致団結します。8月1日、日清両国が宣戦布告をします。9月15日、平壌攻略。9月17日、黄海開戦。大勝利。11月7日、大連占領。11月21日、旅順占領。日本軍は北京に迫りますが…ここで、日本は清の西太后と李鴻章にここで止めた方がお得ですよね。と説得して、戦争を終結させます。元勲たちの読みは国力差では圧倒的に清の方が上だが、統率の取れていない清の軍隊なら勝てると考えていました。結果的に想像以上に清は弱かったということです。もともと日本の戦争目的は朝鮮半島から清を追い出すことですから、それは達成できました。自由民権運動の輩どもは清を占領しろ!と息巻いていましたが、明治の元勲たちは戦争の止め時を心得ていました。戦争は初めるよりも、止める時の方が難しいのです。どこで落としどころを見出すかということです。日本は戦争目的を果たしたので、それ以上の攻撃は無意味と判断して、講和を持ちかけたのです。それが下関会議です。1895年3月20日に行われます。日本の全権大使は伊藤博文、陸奥宗光。清の全権大使は李鴻章でした。そして、下関条約が締結されます。1895年4月17日です。

 

 下関条約の内容ですが、①朝鮮の独立(清の属国ではない)②台湾、遼東半島の割譲。③二億両の賠償金。です。ここでも、陸奥宗光の才が光ります。この条約内容にロシアが干渉してくるのは決まっている。だから、清には大目に吹っ掛けた内容だったのです。日清戦争後にさらにロシアと戦争するわけにはいかないので、ロシアの要求を日本は飲むことになる。だから、あらかじめ多めに要求していたということです。ロシアは前回お話したとおり、ヨーロッパに目を向けているのではなく、東方を重点にしていました。ですから、そういう危機意識を元勲全体が把握していたのです。どうせ取られるなら、最初から吹っ掛ける。凄い先見性です。こういう外交官や政治家は今、必要だと思うのですが、現在の日本にはこういう優秀な政治家は存在しません。悲しい限りです。で、陸奥宗光や明治政府の元勲たちが予想していたように、ロシアが干渉してきます。三国干渉です。その模様は次回に。