今年の12月24日は何だかバタバタしました…どこかに行くとか、誰かに会うということはありませんが、クリスマスイブのイベントは関係ないのですが、とにかく、時間が足りない感じがしました。というのも、僕にとっての最大のイベント、有馬記念です。いつもの日曜日のように、予想をしながら、雑事をこなし、あっという間に時間は過ぎて、有馬記念が始まるという、いつもの日曜日の流れ。有馬記念は馬券も取れたし、このレース自体が感動するレースでもありました。ここまでウルッと来るレースは今年一番かなと思っています。やはり、有馬記念はドラマ性を生みますね。ということで、余韻に浸っていると、観たい動画がバンバン上がり、中には1日で消滅する動画もあるので、大変。しかも長いし…前から24日に観ようと思って、我慢していた、VIVANTの最終回もあるしで、どう、うまくスケジューリングしようかと考えながら、ちょこちょこ動画を見だしました。それ以前から、観たくても、観れない動画もあり、そこに、観たいモノが加わり、ちょっとしたパニック。ネットニュースでM1王者が決まったと分かった時は、あ!今日はM1やったと思いました。M1を見なかったのは実は初めてです。M1は第一回の中川家が優勝した時からずっと、毎年見ていました。年々、大げさになっていくのも知っていましたが、やはり、無名の芸人がこれから活躍するってなると、観たいモノです。でも、M1の放映時間3時間半は今年は耐えられなかったかもしれません。とにかく、始まるのまでが長い。もっとコンパクトにしても良いのに、なんだか、煽りの前振りは、大晦日の格闘技でよくやる手法で、テレビマンはバカなのか?と思わせる演出。そういうことに、近年はムカついていたものですが、今年はやる日さえ、把握できてなかった。有馬記念と被ったら、いかんがな!と今年は個人的に思ってました。今年は特に余裕がなかったです。まあ、極めて個人的なことなのですが…とにかく、消される動画を最優先して、でも、VIVANTの最終回は観たいしで、迷いましたが、やはり、素直にVIVANTの最終回を観ることにしました。観終わった、話の中身の感想は別のブログでお話ししますが、今回はそこで思ったことをお話ししたいと思っています。

 

 この作品には僕が定義する賢い人が出ているという点です。僕の定義は通常世間で思われている定義とは異なります。ですから、過去のブログでも世間で思われている賢い人を僕は批判してきました。事実、そういうヤツが周りや日本を不幸にしていると感じているからです。こういうヤツらは本当に人間のクズと言ってきました。ですから、賢いからといって、正しいことをするわけではないということを何度も言ってきたと思うのです。賢い=人格者ではありません。ただ、この公式が世間では成立しているのか、やたら持ち上げる風潮に違和感を覚えます。現在の賢いという人はたいていが性格が悪い人しか、僕はお会いしたことがありません。事実そういう人達ばかりなのでしょう。ステレオタイプの性格の悪さです。なぜ、そうなるのかは今までお話してきていると思いますが、簡単に言うと、心の成長をしていない小学生なのです。これは本人が自覚して、変えていくということが必要なのですが、そういうことはしません。なぜならば、自分に大甘だからです。克己という概念がないからです。ですから、おかしなことばかりしています。例えば、エリート官僚で占められていた日本政府が太平洋戦争を起こし、大日本帝国を滅ぼしました。エリートで占められる財務省は不景気なのに、国民から増税して、資産を掠め取ろうと躍起ですし、財務省のイヌである増税メガネが国のトップですから、財務省の言いなりです。民間でも、エリートと呼ばれる人たちが汚職をして逮捕されるという事件が後を絶たないです。こういう人達の共通したところは賢いけれども人格者ではないという点です。私利私欲に走ったり、保身だったり、利己主義をばく進したりと、自分の持っている知識を自分のためにフル活用しているという感じです。ですから、当然、性格は悪くなるし、他人の心を推し量るなんて無駄なことはやりません。人格者とは程遠い存在になっている人が多数です。こういう輩が国の中枢に根付いているので、頭が痛いです。それは官僚だけではなく、大手企業のトップや公的機関、民間組織のトップもそういうマインドになっています。そういうものはいずれ腐敗しますし、民間ならば、倒産できますが、公的機関ですと凄く厄介です。日本の文化として自浄作用はありませんから、どこまで落ちていくのやら…学会といわれる象牙の塔はまさにそんな感じになっていると僕は思っています。

 

 VIVANTの最終回を観て、賢い人の心理戦。そこに気がつくのか?そして真意を測るシーンは圧巻でした。わかっていて、あえて泳がすという手に出ているシーンのオンパレードで、展開のスピード感をもたらしています。そういう気づきが出来ていること自体が思いもよらないことで、さすが、頭の良い人は違うなと感心しました。で、組織の中には必ず、私腹を肥やす輩が存在して、そういう輩はバレますし、制裁を加えられます。裏切りも想定内で、裏切る動機も私利私欲ですから、どんなに頭が良くても、いずれバレてしまうという展開でした。そういう展開がこれでもかというぐらいに出る一方で、義を重んじる、恩を重んじるという姿勢にはちょっとほっこりするぐらいに、助け舟を出しています。良い点として、頭の良い人が目指している方向性です。そこが僕が定義している賢い人が見えているところだったのです。中にはそういう僕の定義した賢い人が存在するという点が、凄く共感したのです。ですから、面白く鑑賞できたのです。本当に僕の定義する賢い人がたくさん日本に存在していて、日本の中枢の裏側にいて、日本を守っているのであれば、凄くそれは素敵なことだと思うのです。僕の妄想ですが、このVIVANTというドラマは完全なフィクションだとは思えない、リアリティーが僕にはあったのです。別班という存在がないと、僕のモヤモヤは消えないからです。逆に言うと、別班という存在があると、凄く納得する、一本の筋が通ると僕は思っています。

 

 福沢諭吉の『天は人の上に人を作らず・・・』という学問ノススメがあります。平等を説いていますが、どうしても貧富の差は生じます。だから、学問をおさめよという内容なのですが、ここでいう、学問は実学。つまり、生きるために役に立つ知恵です。そしてそこで学んだ学問を多くの人に、世のため、人のために、説いていこう、そして、みんなで幸せになっていこう、世の中を良くしていこうという福沢諭吉の願いが込められているのです。僕が思うに、得た知識、学問で得られたスキルをどう実社会に役立てているかという点が大事なのです。江戸時代の知識人はそれが出来ていました。試験制度で出世するというシステムがありませんから、自らの向学心で学問をおさめ、その知識を広く社会に貢献しようという気概があったのです。ですから、尊敬も集まられますし、立派な人だ、賢い人だとなるのです。しかし、明治時代以降、試験制度でふるいが懸けられるシステムが現在も継続中です。もう、戦前からこのシステムは破綻しているのですが、いまだに継続中です。どう破綻しているのか?試験制度で勝ち残った人たちを立派な人だと錯覚する点は残りますが、中身は全然別物になってしまっているのです。つまりは、得た知識、学問で得られたスキルを自分の出世や保身の為に使っているのです。こんなことでは、福沢諭吉も泣いていることでしょう。ですから僕はこういう保身や自分のためにとか、利己主義は真の賢い人だとは思っていません。どちらかというと、人間のクズであると認識しています。その証拠に、そういうクズたちが政権の中枢にいますから、日本はずっと悪いままに落ち込んでいってます。そして、保身や利己主義がまかり通る世の中になっていると僕は思っています。それは本当に頭の痛い現実です。ですから、フィクションを夢想してもおかしくないほど、現実逃避したくはなりますね。こういうバカエリートが社会をぶち壊そうとしているのです。彼らの頭の中にはみんなのために、国民のためにという概念がすっぽりと抜け落ちているのです。せめて半径5メートル以内の人々を守ったり、幸せにしたいと思って欲しいものですが、まあ、せいぜい半径30cm似内でしょうね。

 

 僕が定義する賢い人とは自分が得た知識や経験や、学んだ学問のスキルを世のため、人のために、流布できる人たちです。ですから、別に高学歴の必要はありません。何かを極めた人はそういうレベルに到達しているので、精神的にも突出していると思います。まさに、人格者です。人格者は本物です。こういう本物の人に僕はあまり出会ったことがないので、会いたいなと切に思っています。いろいろと学ばせていただきたいからです。知識はあくまでも、役に立たなければ意味がないと断言したのは三国志の諸葛亮孔明です。そんな時代から、輩系の知識人がいたんだと思うと、変わっていないな~!と思いますね。こういう本物を積極的に登用されれば、何もかもうまくいくのですが、偽物は本物を遠ざけます。本物を見極める力もありません。例を挙げると、日本サッカー協会になぜ、岡田武史や中田英寿、本田圭佑の名前がないのか?日本サッカー協会は日本をもっと強くする気がないのです。彼等を登用したら、滅茶苦茶日本は強くなって、自分たちは何だったのか?と思いたくない、こういうつまらない理由で彼等を遠ざけているのです。いかに貧しい心の持ち主が日本サッカー協会の中枢にいるのか!ということです。こういう組織でもそういうことが起きているので、様々なところで、こういうことは起きていることでしょう。たいてい、優秀な人、本物、賢い人は組織から追放されたり、自ら引いたりするものです。ですから、残された組織はどんどん腐敗していくということです。利己主義や自分さえ良ければよいという心の貧しい人間しか、政治家や組織に残らないので、どんどん腐敗していくのだと僕は考えています。

 

 クリスマスの25日にはこういうことを考えてました。ではどうするのか?というところですが、なかなか頭の痛い問題ですね。まあ、腐敗した組織は潰れていくのが常ですから、仕方がないことでしょう。なんだか、いろいろな点と点が結ばれた気分でした。VIVANTというドラマを観て、そう感じましたね。まあ、その他にも色々見たい動画が多発していて、時間が足りない感じでしたが、まあ、退屈しないで済みそうです。クリスマスを1人で過ごすのは寂しいという同調圧力がありますが、僕は全然そんなことはなく、むしろ、いろいろ忙しい今年のクリスマスでした。この調子で年末まで向かうのでしょうが、僕にとってはお正月もいつもの日々と一緒なので、あまり気にはしていません。もともと、昔から、初詣なんかしたことがないですから…(笑)