先日、中学校の同級生と飲み会がありました。昨年も行われた宴ですが、ちょっと早い忘年会の位置づけなのか、集合しての飲み会に参加して、大変楽しい時間を過ごしました。滅茶苦茶楽しかったですし、正味5時間ぐらいの宴でしたが、あっという間に過ぎてしまいました。楽しい時間は過ぎるのも早い。美しい時間でした。僕個人としては実はお酒を普段全く飲まないので、今年初めてお酒を飲みました。ですから、帰りの最寄駅に到着した時からの記憶が全くなく、起きたら、家で目覚めたという感じです。こういうことは以前、何回もあり、ちゃんとやるべきことはやっているので、問題はありませんから、気にはしていません。幸いにも二日酔いはなかったので、次の日も爽快でした。ただ、最寄駅から家に帰って、寝るまでの行動の記憶がないだけです。で、いろいろな話をしました。凄く面白かったです。僕のブログの話も取り上下てもらいました。実はいいね!は付けないけど、結構意外に読んでいる人がいるということがわかりました。これは意外過ぎて驚きました。実は僕の中ではFacebookに僕のブログをリンクさせるのを止めようと思っていたからです。

 

 僕のブログ事情なのですが、ブログを始めたのが2019年6月。4年半。継続していることなのですが、およそ2000件のブログを掲載しています。で、読まれている状況ですが、たいてい、平均して、一日40回ほど。しかも、即効性はほとんどなく、以前のブログが読まれていたり、特に、日本史や世界史の過去の記事が読まれているという状況です。まあ、あれだけ記事が掲載されていれば、何かしら引っかかる感じで読まれることがあるのかもしれません。以前はリアルタイムネタを取り上げて、再生数を稼ぐことも考えた時期はありましたが、現在はそういう気が全くなく、ほぼほぼ、リアルタイムネタは直接は取り上げません。マクラにすることあっても、実は違うことをお話していることが多いです。僕にとってはたくさんの人に読まれることにあまり関心が無くて、好きなことを好きなようにお話ししたいだけという思いが強くなっているのが今の現状です。バズルことをハナっから狙っていないのです。そういう中で、Facebookにもリンクを雑感だけはしているのですが、あまり読まれていない数字が見られます。Facebookも僕は投稿しなくなりましたし、見る機会も減りましたから、リンクしないのでは良いのでは?ということを考えていました。ですから、毎回ブログを上げてリンクをしたら、あとは放置する感じです。その後どうなったのかは全然観てません。ごく稀にコメントがある時はその返信をします。それは最低限の礼儀でしょ。という感じですね。あとは、どんな感じでいいね!をされているのかとか全く見ていませんし、知りませんでした。実は今年、雑感をFacebookにリンクしていたのは、2022年の飲み会で毎回読んでいるという人と話が出来たからです。彼はアメバのアカウントを持っていないので、Facebookにリンクされないと僕のブログは読めません。ですから、彼一人のためにリンクし続けているのが今年の事情なのです。今回の宴で、彼も参加していましたから、彼が読むのを止めたと確認できたら、来年から、僕のブログをFacebookにリンクするのを終了しようと考えていました。ところがまだ読んでいるとのこと…(笑)。そうなると、来年もFacebookにリンクしないといけなくなりました。そういう中で、意外に読まれているという話になりました。僕にとってはいいね!はあまり重要ではないのですが、いいね!はしないけれど、読んでいる。いいね!をすると誤解されると困るからしないけどと言うことでした。この話を聞いたときに、え?っとなりました。そこから考えるに、評価主義の呪いにかかる病の深刻さを感じましたね。

 

 ここで問題に思うことはいいね!の価値と誤解されるという発想です。僕自身はいいね!に関して、あまり興味を持っていないので、特に何も?という感じです。ですから、僕自身、いいね!がついていること自体も知らないのですから、誤解のしようがありません。ただ、それを見た人が誤解するということはかなり深刻な呪いがかかっており、それをこじらせ重症化していると考えます。そこまで深刻な人は稀でしょうが、どうも調べていくと僕の方が特殊であるようなのです。いいね!の数は大事なようです。しかも誰がいいね!を押したのかもリサーチするようです。凄いのは超いいね!を押してくれた人は会って話もしたことないのに、その人は良い人だ!と断定している人もいます。ここまで行くと、いいね!に価値を見出している人が多いようなのです。このマインドは評価主義の呪いの深刻さを感じさせてしまいます。評価主義が末端まで染みわたっていると、このようなSNSの反応、いいね!に一喜一憂するのでしょう。僕からすると、バカげて幼稚なことなのですが、そういうマインドの人達にとっては大事なことなのでしょう。さらに誰が押したのかをチェックして把握しているのは末期症状のように思えてしまいます。このマインド、この呪いはけして人生を楽しくはしません。凄く窮屈で、貧弱なものであると考えています。ですから、それで良いの?と思ってしまいますね。

 

 そもそも、このマインド、評価主義の呪いですが、評価主義とは何か?ですが、これは現代社会に根深いもので、ランキング主義とも同様です。現代の教育システムはこの評価主義、ランキング主義でランク分けされています。成績然り、行く学校までそういうモノで振り分けられています。つまり、子供の時から、この評価主義における評価をずっと受けていて、大人になって、就職しても、その評価はずっと続くというシステムです。当然、勝ち残る人たちは少数派ですから、大多数が振り落とされるものです。そういう評価は他人の目も巻き込みます。いわゆるブランド志向です。このブランドを獲得すれば、評価が上がるという謎のシステムです。この評価主義の最大の欠点は人間性を削除しているところです。不思議なことに、エリートは皆、人格者だと錯覚されます。肩書がある人は偉い人格者と思われることです。これはたいてい間違えていて、大抵のエリートは人間のクズのような性格の持ち主ですし、肩書のある人でも卑しい心の持ち主はたくさんいます。でも、この評価主義のゲーム上では評価された人は人格者であるという錯覚をさせられるのです。そのゲームに参加すること自体がおかしなことなのですが、そういう教育システムになっている以上、この呪いは一度は浴びないといけません。しかし、その呪いがどこかで解けないと痛い目に合うと僕は思っています。それは、評価主義には様々な親和性を持つモノが存在するからです。

 

 評価主義に親和性があるものは所有するという概念です。自分のモノだと考える思考です。この思考は無意識に持っているモノなので、非常に厄介です。評価主義にこの所有の概念が結びつくと、トロフィーが必然的に必要になっていきます。賞状とか、ブランドとか、肩書とか、名誉とか、権威とか、こういうモノに取り付かれるようになります。そもそもは何の意味もないモノなのですが、価値をつけられ、勝利の証、評価された証になってしまうと、とたんに意味を持つモノに変化してしまうのです。どうやら、SNS上のいいね!の意味も、こういうことなんだろうと考えます。評価主義の呪いから解放されている人にとっては何の意味もないことですが、評価主義に毒され、所有の概念を保持している人にとっては、重要な意味があるということになるのでしょう。この意味がこの毒された人たちにとっては苦しむことになります。こういったトロフィーが欲しいがために、いろいろなことをします。真っ当な人は努力もするでしょう。しかし貰えなかった代償もあるということなのです。これは評価されなかった、ダメだったと自己肯定感を著しく落とすことになるのです。SNS上でたくさんの誹謗中傷を受けて、自殺する人がいますが、これはこの評価主義というゲームに参加していて、ダメという評価を受けた代償により、そういう行為に至ってしまうということなのです。ですから、こういう悲劇は、この呪いのゲームから降りないことには救われない事象なのです。さらに親和性があるものがあります。それは勝負がかかっているというマインドです。つまり、競争主義です。何事にも勝ち負けがという概念が存在していると、これは厄介です。勝てば評価が上がりますから、例えば、スポーツの世界では妥当な考えです。でも、一般社会で勝ち負けを競うことなどほとんどないと僕は思っています。でも、マウントの取り合いをする幼稚な人は多いです。勝ったからどうなの?という感じですが、この幼稚性は抜けないモノでしょうね。優越感に浸るというマインドが心を貧しくさせていると僕は感じます。この、評価主義、所有の概念、競争主義が三つまとまると、どういうことになるのか?それは立派な利己主義の誕生です。

 

 利己主義の本質は自分さえ良ければよいというマインドです。ですから、他人がどうなろうと知ったことではありません。他人に関して、興味も関心もありません。そうなると、他人を認めることもできませんし、他人の話など聞く耳をもてません。こういうマインドの人は先天的なこともありますが、後天的、評価主義のゲームに参加させられた結果、こういうマインドになるということです。このマインドになっている人には自覚がありません。ですから、これからが哀れですが、それは仕方がありません。窮屈で、貧弱で、自分の保身にキュウキュウしている姿は本当に滑稽です。こういうマインドの持ち主は永久に楽しい人生にはなりません。なぜかというと、心が貧しいからですし、そこに愛がないからです。相当キツイ、人生の終盤を迎えることでしょうね。ここまでくると、手は付けられませんが、そういう人は置いておいて、本当に人生を豊かに楽しくいきたい人にはやはり、この評価主義の呪いから解放するように努めることをお勧めしますね。呪いが解ければ、まるで違う景色が見えると僕は思っています。そして、寛容になり、受け入れることができるので、そこからさらに派生してという、良い循環が生まれます。今まで見えてなかったものが見えて来る快感は素敵なことだと思うのです。素敵な瞬間は何度あっても、嬉しいものだと思います。

 

 今回、旧友たちと楽しく飲めました。素晴らしい時間でした。こういう体験も良いなと思います。そして、こういう機会が増えてくるともっと良いことだと思います。楽しいひと時を仕切ってくださった人には本当に感謝しかないですね。