リシュリューが30年戦争に介入したころは、ちょうど日本が『鎖国』と呼ばれる貿易統制令を発し始めている頃の話です。晩年のリシュリューは、と言っても50歳代。ちゃんと後継者を育てていました。教皇庁の外交官としてフランスに来ていた、イタリア人のジュール・マザランをスカウトしていたのです。外国人参政権どころか、外国人宰相ですが、この時代の人は気にしません。リシュリューとすれば、『有能で、国王に対する忠誠心があれば、外国人でも構わない』です。内外に戦乱を抱えるフランスを率いるには、その二つが優先すると考えたのでしょう。マザランもフランスに骨を埋めます。ちなみに、エコ贔屓はフランスの伝統だとか。大学のボスが愛人を教授にしてやろうが、大統領が愛人を首相に任命しようが、そんなことを気にしていたら、フランス人はやってられないそうで。ただし、取り立てられた人に能力があれば、とのことですが。それはともかく、大宰相リシュリューが見込んだだけあって、後継者のマザランも極めて優秀でした。1642年、リシュリューの死後に宰相の地位を築き、王太子ルイ14世の教育係も兼ねます。翌年、ルイ13世が崩御すると、5歳の新国王、ルイ14世の後見人になります。リシュリューとは犬猿の仲だった母后アンヌ・ドートリッシュとはデキていたと疑われるほど、良好な関係を築きます。

 

 リシュリューの置き土産の30年戦争も、ヨーロッパ最強の陸軍を駆使して有利に展開させます。何が最強って、増税に次ぐ増税で無尽蔵に近い大量動員を行うことなのです。とにもかくにも、1644年には講和会議を招集するまでに至りました。ウエストファリア会議です。神聖ローマ帝国内のウエストファリア公国で開かれたので、ウエストファリア会議と呼ばれます。そこで最初の1年、会議の序列を決めるのに揉めます。バカバカしいようですが、自分たちの存亡がかかっていますから、真剣です。現在、『君主ー大統領ー首相』の序列は国際慣習法で確定していますが、この時に揉めながら決めたのが重要な先例です。次に決めたのは何語を使うかです。結局、オシュナブルックではドイツ語、ミュンスターではラテン語、フランス語、イタリア語が使われました。フランス語を国際語にしたのです。英語がこれに取って代わるのは、20世紀の世界大戦まで待たねばなりませんから、どれほど世界史的な影響が大きいか。こんな調子で、ウエストファリア会議を説明していくと、あまりにも会議の内容が重要すぎて、終わらないので、飛ばします。1648年、ウエストファリア講和条約が結ばれます。フランスは名実ともに、大国となりました。

 

 30年戦争は『最後の宗教戦争』と呼ばれますが、それはカトリックのフランスが、プロテスタント側について参戦し、それが講和条約による終戦を導いたからです。宗教で敵と味方が分かれる、宗教が理由で戦争が終わらない、という時代はこれで終わります。宗教戦争を終わらせたのは間違いなく、リシュリューと彼の仕事を受け継いだマザランの功績です。それを意図していたかどうかは、ともかく。ヨーロッパは新たな秩序を模索していくことになります。では、新たな秩序とは何か?国家が主役となる時代の到来です。現に、我々が想像する国家の原型は、この時つくられました。ウエストファリア体制と言います。これまで見てきたように、ヨーロッパの歴史は平気で国境を飛び越えて展開します。今日の我々が『フランス』と呼ぶ地域のなかでも、国王・貴族・宗教勢力が入り乱れて、まとまりがありません。それが、『国家とは国王のことである』という意識を強めます。そして、国際社会とは、そのような国家と国家の付き合いなのだ、という意識が生まれ、やがて国家間の付き合いが蓄積され、慣習法化し、現在に至る国際社会が出来上がるのです。『国王こそが国家であり、国家のなかのいかなる者も国王に従わなければならない。国際社会とは、そのような国家と国家の付き合いである。』という体制を、難しい言葉で領邦主権国家体制と言います。主権とは、まだにジャン・ボダンが提唱した言葉ですが、実現したのはウエストファリア条約です。『国家のなかのいかなる者も従わせる力』を主権と呼びます。国際社会とは、そのような力をもつ主権国家の集まりなのです。だから、外国に攻め滅ぼされないような力をもつ者だけが、主権国家として認められるのです。過酷な生存競争であることは間違いないのですが、少なくても、相手を皆殺しにするまでやめられない宗教戦争よりはマシです。こうした新しい秩序に反対する勢力もいました。真っ先に、ローマ教皇庁はウエストファリア条約の無効を宣言します。これは長い殺し合いに疲れ切っていたヨーロッパ諸国に無視されました。『誰も今さらアンタの命令で殺し合いなんかしたくないんだよ!』ということです。

 

 しかし、フランスでは国王の支配を嫌う貴族たちがいます。彼等はフロンドの乱を起こしました。マザランは、1653年まで5年かけて鎮圧します。マザランは同時並行で、スペインとの戦争は続行しました。ウエストファリア条約は『神聖ローマ帝国の死亡診断書』と呼ばれるほど、皇帝の権威を失墜させました。『死亡』は言いすぎですが、オーストリア・ハプスブルク家は再起に時間を要する大打撃を被りました。マザランは双頭の鷲の片方を叩きのめしただけでは飽き足らず、もう片方にも襲い掛かりました。30年戦争終結後も、仏西戦争は継続します。これは1659年まで続きました。戦闘で完膚なきまで叩きのめし、ピレネー条約では戦利品としてルクセンブルクを奪いました。さらに、国王フェリペ4世の娘マリア・テレーズを、ルイ14世の嫁に差し出させます。この時、長引いた戦役で困窮したスペインが持参金を用意できなかったことは、大国からの失墜を知らしめました。ここに、世界中に飛び出す大航海時代をリードし、南米に巨大な植民地を築いたスペイン帝国は、小国に叩き落されたことになります。1661年、宰相マザランは59歳で死去しました。