昨今のニュースを見ていると、つくづく、忖度はあるし、相変わらずマスコミはクソだし、狂っているなと感じます。海外では、イスラエルが不穏な動きをしているし、まあ、中東戦争には発展しないと思うのですが・・・いまだにロシアとウクライナの戦争は継続中ですし。国内ではいまだに、あの事務所を叩く、手のひら返しのマスコミ。その事務所も言っていることとやっていることが違う方針を打ち出しましたし、増税メガネが今や増税クソメガネと格上げされ、言われるようになり、森林環境税なるものを国民に課そうとしています。増税クソメガネというネーミングにムカついたのか、減税を言い出しましたが、言うだけで絶対にやりません!なぜかというと国民を騙せると増税クソメガネは思っているからです。ホンマにクソですね。埼玉県ではアホの子供虐待法の法律が決まりそうになりました。推進しているあの議員はとある国会議員の自民党議員後援会長であり、利権の匂いしかしません。事実、アベプラで、県に言っても、予算が増えないので、法律で対抗する!という腐りようです。公金チューチュースキームを構築させようとする輩です。県議会議員選挙には投票にはいかない有権者の手足を縛る法律を通そうとした御仁ですので、その県議員の選挙区の方々はよく考えて、投票に行ってください。また、政府や自治体は、新たに、新型コロナワクチンを追加で購入し、積極的に摂取するように呼び掛けています。まだ、コロナをやっているの?と呆れますが、厚生省ってバカなの?と思っていまします。マスク率もだいぶひところよりは減った状況で、何してるの?という感じです。このように、ほんの数例ですが、それだけでも狂っています。こういうバカなことが現実で起きているので、まともな人は病んでしまうのが当然です。なぜなら、おかしいですから。このおかしさをまともな神経を持っている人なら、充分にわかってることだからです。このおかしさをわかっていない人は置いておいて、心を痛めている人達がいるなかでも、やはり、この世界で、この現実で生き残っていかなければなりません。そういう使命感の中で、では、狂っていない時代があったのか?マトモで良い時代があったのか?ということをちょっと考えました。

 

 僕の知っている歴史をざっと考えてみても、マトモで良い時代はありません。つまり人間の歴史は狂気の歴史なのです。世界史で観ても、中国は今が歴史上一番まともです。あれで、一番ですから、頭が痛いです。常に動乱と腐敗の歴史ですから、中国に生まれなくて良かったという思いはあります。西洋も悲惨です。宗教戦争が長く続きましたし、人種差別も甚だしい。ただ、西洋は少しづつですが、腐敗を正して、試行錯誤を繰り返し、間違っては改めを繰り返して、少しづつ進歩しているようには見えます。そして日本ですが、一番マトモで良い時代は8000年ぐらい前の縄文時代でしょうか。それでも天変地異の多い国なので、痛い目には合っています。日本の歴史のなかではマトモで良い時代はひとつもありません。特に酷いのは、2つあって、ひとつは室町前期です。これはヤバイ。鎌倉時代末期から腐敗は進み、ずっと内乱があり、誰が敵なのかよくわからない、修羅の国と化してました。それは外国にも影響を及ぼしていまして、中華大陸をカツアゲしに行く、それが当時の政府が積極的にという感じですから、今の日本人には理解が出来ないマインドです。もうひとつは戦後からの現代です。アメリカにボコボコに負けたので、そのマインドがいまだに尾を引いているという体たらくです。それを何とかしようとした政治家が暗殺される事態です。これはもう、別の意味で修羅の国ですし、狂っているのは間違えありません。どうも、人間社会とは欲望に勝つことなく、やりたい放題の度が過ぎて、狂った社会を形成してしまうという生き物のようです。誰もが幸せで、豊かになるという発想はなくて、一部の人が都合の良い様に仕向けてしまうので、狂ってしまうのだと考えます。それでも、そういう社会では生き残らなければいけません。そういう社会で生きているなかで、たとえ狂っている社会であっても、本道の精神みたいなカラクリ、目には見えない仕組みというものがあると僕は考えます。

 

 それは何かというと、因果応報という概念です。つまり、善いことをしていれば、善いことが返ってくる。悪いことをしていれば、悪いことが返ってくるという発想です。これは心理なのではないかと考えています。では、この善いことと悪いことは誰が判定するのでしょう?それは自分自身ではありません。ですから、自分が正しいと思ってやった行動が必ずしも善行であるということではないのです。この善悪を決めるのは、神という概念であると信じられていますが、そういう宗教の人はそうなのでしょう。ただ、僕はちょっとニュアンスが違っています。無宗教の人は日本人は多いですし、神という概念が善悪を決めるために、たくさんの血が流れていたのが世界史です。正しいか間違っているかという単純な二元論ではないと僕は思っています。当然、神の信奉者である、教祖が悪さをしたり、お坊さんが悪さをするということは良くある話です。神様が決めるというテイで、自らの欲望を満たそうとする行為は人間は歴史上、よくやってました。因果応報という概念はそういう世俗的な概念ではないと僕は考えています。ですから、どのようなことが善悪なのかは僕にはわからない計り知れない存在があって、決められているというイメージです。ただ、こうすることが善行に繋がるということは何となくわかっています。それは何かというと、人に感謝される行動です。これは善行であると思うのです。ありがとうを言ってもらえるという行為のすべてが善行だとは思いませんが、少なくても半分はそういう善行に該当すると思うのです。

 

 善行と悪行の境目みたいなものは、人のためにという発想があるかないかだと僕は思っています。自分の為という発想は欲望の解放であるし、このことで他者を巻き込む行為は悪行であると僕は考えます。例えば、ウソをつくというモノがあります。ウソはざっくり言うと、悪いことなのですが、他人のためにつくウソと自分のためにつくウソは違います。他人のためのウソは主に、その他者を守るためのウソです。これは善いことです。しかし、自分のためにつくウソ、保身ですね、これは悪行でしょう。このようにウソひとつとっても、人のためなのか、自分のためなのかで大きく物事は変わっていきます。お節介と言われても、人のために頑張る行為は必ず、善いこととして報われます。その逆で、自分さえ良ければよい、利己心の塊のような人にはふいに、不幸に見舞われます。そういうモノだと思うのです。これは、どんなに時代が変わっても、人間社会では変わらないものであると僕は思います。ですから、周りがどう言おうと関係ありません。善行を重ねていけば、善行は返ってきます。これが大事なことだと思うのです。人間は善行しかしないという人はいませんから、必ず、悪行も行うので、突然の不幸があることがあります。そして、そういうピンチの時に、救ってくれる人やがいるということは善行を行っていた証拠だと思うのです。それは、カネだとか名誉だとか、そういう低い次元の話ではありません。なるべく善行を積むことにより、また、そういうカラクリを意識するだけで、行動は変わっていきますし、その後の人生の転換も変わっていくのです。僕はそのように思っています。その逆もあって、悪行を重ねていけば、その返りは物凄いダメージです。それこそが因果応報ということなのでしょう。人のためにという発想は想像力を広げることが大事です。想像力がないからこそ、おかしなことが起きるのです。相手の立場になってモノを考えるという習慣と、そこから自分がどうすべきかという意識を持って臨むことで、この狂った社会でも生き残れることだと僕は思っています。少なくても、善行をしていれば、必ず良いこととして返ってくると僕は思っています。それがいつだかはわかりませんが、それを気にしている時点で、野暮ですし、自分のためにという要素が含まれてしまいます。損得勘定という次元の低い、幼稚な発想を捨ていることから始めなくてはいけないことだとも僕は思っています。