1868年に明治維新が起きて、明治政府が誕生するわけですが、そもそも、江戸幕府を倒す目的はこのままでは日本はダメになるということでした。もっと言いますと、このままでは外国に占領されるという危機感でした。外国の脅威はありました。隣の清国のように食い物にされてたまるか!という気概からの江戸幕府を倒すということに繋がりました。でも、明治政府になったところで、外国の脅威が無くなったわけではありません。外国の脅威に対抗するだけの国力を日本がもたなければ、いずれは食い物にされることは同じなのです。その為には中央集権国家にして、国民国家として、軍事力を持たなければいけません。そういう大改革をするには一長一短ではいきませんし、改革を成し遂げたとしても、それが軌道に乗るまでは時間がかかります。結局のところ、国力をつけるまで、軍事力を高めるまでの時間がどうしても必要になるのです。当然ですが、日本が国力を付けるまで外国は待ってはくれません。そんなバカなことはしません。弱い時に叩くのが常套手段ですから。いつ、襲い掛かられても仕方がない状況ではあったのです。しかし、ここに明治維新の奇跡があったのです。明治政府の改革が成果を結ぶまで時間があったのです。これは当時の世界情勢の間隙をぬった、奇跡的な空白の時間があったのです。その空白の時間に明治政府は様々な改革により成果を上げる時間が稼げたのです。こんな奇跡は滅多に起きませんので、まさに日本は奇跡の国と言いても良いと考えます。そういう空白の時間が東アジアにはありましたが、中華帝国や朝鮮半島は無駄に時を過ごしてしまいました。日本はその空白の時間をフルに利用し、優秀な人材を生み出し、、国づくりを懸命にやっていたというのが明治維新なのです。悪いことが重なる奇跡は歴史上たくさんありますが、こういう良い方の奇跡はなかなかお目にかかれません。その空白の時間を奇跡に変えたのは日本人の底力だと考えます。では、なぜ、外国の脅威が弱まる、空白の時間が出来たのでしょうか?

 

 明治維新前後の世界情勢をお話していきます。まずは、鎖国を解放したと言われるアメリカですが、1861年から65年までの間に南北戦争をしています。一応、教科書的には内戦と言われていますが、実は大事です。アメリカ大陸にあるアメリカ合衆国VSアメリカ連合王国の戦いです。国同士の戦いに当然、ヨーロッパの大国も双方に後ろ盾がありますから、凄い戦争です。4年間の戦いで約4万人が戦死したと言われています。こんな戦争ですから、敗戦処理も大変です。アメリカという国は負けた敵をなかったことにするぐらいに、徹底して潰してしまいますから、歴史上からも消されますし、真実も消されます。その徹底ぶりの教訓がこの時代からすでにあったのです。現に、日本も徹底的に潰されかかり、戦後70年以上経っているのに、いまだにGHQの洗脳は解けないという徹底ぶりです。そんなことをしているのですから、アメリカは自国のことで手いっぱいで、他国への干渉などできる訳がありません。しかも、アメリカと日本は友好国家でしたから、ヨーロッパの大国のように荒っぽいことはしなかったと思います。では、ヨーロッパですが、プロイセンが暴れまわってました。ドイツ統一に向けて、ビスマルクがヨーロッパの主役でした。プロイセンの仕上げに起きたのが1870年の普仏戦争です。やりすぎて、パリも陥落させてしまいました。ヴェルサイユ宮殿で、プロイセン王国はドイツ帝国と名を変え、ドイツ統一を図るとともに、ヴィルヘルム1世が皇帝として戴冠します。その後の戦後処理で、ビスマルクはフランスのリベンジを怖れて、フランスをヨーロッパから孤立させる外交作戦に出ます。これがビスマルク外交と言われます。一見すると誰も理解できないような難解な外交戦略ですが、とどのつまり、フランスを孤立させることが目的で、さまざまな同盟を結び倒します。特にフランスとロシアがくっつくとドイツは挟み撃ちにされるので、そうならないような巧みな技がさく裂しています。このビスマルク外交でヨーロッパの平和が保たれるということになります。これが空白の時間、明治政府への時間稼ぎになった要因なのです。しかも、ただ単にヨーロッパが平和だったわけではなく、バルカン問題というヨーロッパ共通の問題を抱えていたので、バルカン半島をめぐりしょっちゅう戦争が起きるので、止めに入るというのを繰り返していました。このタガがはずれるのはビスマルクの失脚により、複雑外交が解消され、バルカンが燃えて、第一次世界大戦になるという流れです。ヨーロッパの大国にしてみれば、ヨーロッパがかりそめの平和の期間があり、東アジアの利権はある程度制覇しているので、わざわざ遠くの日本にちょっかいを出す必要がなかったということなのです。これは日本にとっては奇跡というほかありません。この時間をフル活用したのが明治政府なのです。

 

 明治政府がまず取りかからなければいけないことは中央集権国家にすること、国民国家にするということでした。これらは明治天皇の意志でもありました。それまでの幕藩体制は藩が勝手に税を徴収したり、貿易をしたり、経済を回したり、軍事力を持っているという連合国家でした。藩内で通用するお金も発行していたぐらいです。ここでそれぞれの藩の資質が影響してくるわけですが、祖法を守り、昔ながらの体制を保持していた藩は落ちぶれていきます。逆に勝手に外国と貿易したり、軍備を増強したり、進歩的な科学を外国から受け入れたりという藩は躍進していきます。そういう幕藩体制を統一し、税の一括徴収、経済、貿易、貨幣制度も全国統一という仕組み、日本国として戦う軍事力の統一を成し遂げてこそ、中央集権国家であり、国民国家になるということです。この改革はそれぞれ勝手にやっていたら、外国には太刀打ちできないという危機感の表れでした。ですか、社会構造を根本からひっくり返す改革ですから、これは大変です。その分、時間がかかるわけです。一気に行えば、必ず反発が出るのは日本では有りがちですから。で、まず取りかかったのは徳川に味方した藩の処遇です。徳川家の領土は没収。味方した藩の領土も没収します。そしてその地域に県を置きます。しかし、明治政府に味方した藩はそのままでした。これでは旧来とは変わりません。そして、次に行ったのが、版籍奉還です。大久保利通と木戸孝允が主導します。薩長土肥の雄藩が積極的に行いました。1869年のことです。薩長土肥の藩主が版籍奉還を申し出ました。版=領土。籍=領民を天皇にお返ししますということです。つまりは、領土と領民を天皇へ、ということですが、徳川方に味方した元藩だけではなく、薩長土肥の領土、領民が天皇の元へということです。これをいわゆる教科書的なことを言うと、身分制度は無くなったということになるのですが、これは些末なことです。藩といういわば国のようなものが消滅したということですから、凄い改革です。しかし、一気には進めず、ゆるりと時間をかける作業でした。なぜならば、藩主やその側近たちは職を奪われるわけですから、不平不満は出るに決まっています。そこでとりあえす、藩主には知事藩という役職を付けることになります。社会構造としては従来と同じようなことです。薩長土肥が進んで行ったことで、他の明治政府に加担した西国大名は見習うことにします。なし崩し的に、藩は消滅していくことになりますが、名前が県に変わっただけです。藩主もそのままです。この状況を変えてしまったのが廃藩置県なのです。

 

 版籍奉還から2年経過した1871年に廃藩置県の詔が出ます。これは、元藩主の知事藩を東京に強制移住させ、集結させ、住んでいた領地に役人を送り込むという改革です。その役人の名称を知事と言います。知事が元藩の運営を行うことになるのです。これには、多少の抵抗があると考えられ、薩長土肥の1万人の軍勢を率いて、ひとつひとつ藩を回り、その趣旨を説き、知事藩の東京への強制移住を実現させました。この改革の凄いところは抵抗はなく、戦死者がひとりも出ずに、この改革が完了できたことです。天皇によるカウンタークーデターと言われますが、社会構造が劇的に変化した瞬間です。これにより、日本の天下統一、中央集権国家の実現。国民国家の実現がなされたことになります。この改革が天王山だったと考えます。庶民には関係ないことですが、社会環境は一変することになったからです。藩のためにという考え方から、日本のために、国家のためにという意識改革も同時並行で行われるのですから、凄いことです。しかも歴史上、こういう改革をした時は戦争がつきものなのですが、ひとりの戦死者も出さないというのは異常事態です。奇跡と言っても良いでしょう。こういう大改革を行うことにより、態勢は一応整いました。あとは、国力、軍事力を高めることになります。この時間を稼げたのも奇跡だと僕は思います。しかし、この態勢になったからと言って、簡単には強国にはなれません。悪戦苦闘の出来事があります。それらの出来事は次回に。