1868年1月の初めに薩長軍が錦の御旗を掲げると、雪崩現象が起き、幕府軍は蹴散らされます。ここまでは優勢に進めていた徳川慶喜でしたが、一瞬にして、敗走して蟄居してしまいます。なおも、旧幕府軍は戦うのですが、1868年9月23日に庄内藩が降伏し、奥羽越列藩同盟が瓦解して、本州での戦いが終了します。それでも、抵抗する幕府軍は函館に集結します。1868年10月22日、榎本武揚をトップにすえた、榎本軍は箱館府軍との間に戦闘を開始します。11月22日、箱館府軍を蹴散らした榎本軍は蝦夷地を平定します。12月15日には蝦夷地共和国として独立宣言します。この独立は新政府に組すことができない人たちの受け皿として存在しようとしました。そして、この蝦夷地共和国では選挙が行われ、榎本武揚が初代大統領になります。しかし、新政府軍は蝦夷地(のちの北海道)は日本の領土であり、蝦夷地も含めた日本統一を是非としていましたので、この独立国など認めるわけにはいきません。新政府軍を箱館に送り込みます。1869年4月9日のことです。五稜郭に立て籠もる、旧幕府軍に対して、攻撃を開始します。箱館戦争が勃発します。この戦争で、新選組、鬼の副長こと土方歳三は戦死します。武士以上の武士になる!死に場所を求めた男の姿でした。5月18日榎本武揚は新政府軍に降伏します。ここで、箱館戦争は終了します。榎本武揚は外交的に優秀であったため、明治政府に力を貸してくれと新政府軍から乞われて、明治政府でも重要な外交力を発揮します。新政府軍は投降するものたちをむやみに死罪にはしませんでした。ここで戊辰戦争が終了します。内戦とはいえ、世界史の出来事とと比較しても非常に死者が少なかった政変劇ともいえます。

 

 明治天皇が江戸城に来て、最初にやったことが五箇条の御誓文の発表です。これは簡単に言いますと、君民共治の国民国家の建設の宣言です。藤原摂関政治以降の政治体系の否定をし、天皇を中心とした国家建設への宣言だったのです。そして明治政府の新しい顔ぶれがこの通りでした。

 

 公家   三条実美、岩倉具視

 薩摩藩 大久保利通、西郷隆盛

 長州藩 木戸孝允、伊藤博文

 土佐藩 板垣退助、後藤象二郎

 肥前藩 大隈重信、江藤新平

 

 公家を除くと、ほとんどが下級武士からの登用でした。このメンバーで新政府は動いていきます。何をしたか、大改革のオンパレードです。様々な改革を半年に一回やっているという感じです。コロコロ制度も変わるので大変です。例にしますと、開国和親の布告、キリスト教を禁止するも、諸外国から抗議が殺到し、すぐ撤回。三権分立を試みようとしますが、すぐに、挫折してしまいます。うまく行ったのは、東京遷都、明治改元でしょう。それぐらい、いろいろな思惑が絡んで改革を進めるも、失敗している政策が多かったのです。うまく行った政策がのちに引き継がれていきますが、とりあえずやってみて、ダメだったら、止めるという政策が多かったようです。そういう中で、絶対にやらなければいけない改革がありました。それは廃藩置県です。これを行わない限りは中央集権国家は出来ません。しかし、この改革は多くの既得権益を奪うことになりますから、相当の抵抗が予想されます。しかし、明治政府はやり切りました。それが現在までも続く県制度になっています。どこかのアホが都構想なるものを吠えていましたが、そんなアホが実現できるほど物事は甘くないのです。しかもこのアホは明治の元老の足元にも及ばない人物です。確か維新と名乗っていましたが、月とスッポンぐらいの差がある、フェイクな政治団体というのが現状です。なぜならば、そのアホには志しがありません。未来への意志も存在しません。そんな輩が政治家気取りで大改革をぶちまけてもたかが知れています。明治政府の初期メンバーには未来への意志と、志しをもって、大改革に取り組んでいたのです。この廃藩置県はカウンタークーデターと呼ばれるほどの大改革です。社会全体をひっくり返す、今までの常識を覆す大変な改革です。どうやって、すんなりとできたのか?それは次回に。