前回から時計の針を戻すと、1866年の四境戦争(第二次長州征伐)で、薩摩とパークス公使が支援した長州が江戸幕府に勝利しました。しかし、幕府も将軍に徳川慶喜を据えて改革をします。後ろ盾はフランスでした。そして、最後の罠として徳川慶喜は大政奉還を行いました。薩摩や長州は『外国に立ち向かえないのに政権に居座る幕府を討伐するべきだ』と天皇からの勅命を出してもらうように工作をしていました。しかし、幕府が政権を返上したら、討伐の大義名分が無くなります。そして、現実に政権担当能力があるのは徳川慶喜だけなのだから、最終的には泣きついてくるだろうと徳川慶喜は考えたのです。この徳川慶喜の目論見は当たりました。国内の勢力は誰も徳川慶喜抜きの政権など考えていませんし、パークスまでがほかの国の公使と共に呼び出されて、ノコノコ出かけ、徳川慶喜に『今後も外交を担当する』と宣言されています。これでは徳川慶喜の政権継続の意思表示です。パークスはまんまとお先棒を担がされたことになります。マヌケすぎです。これに敢然と異を唱えたのが、大久保利通です。大久保利通は徹底した現実主義者(リアリスト)です。だからこそ、状況に流されて妥協するだけの現状主義者ではありませんでした。日本が生き残るためには強く新しい政府をつくり、国民軍を作る。そのためには税を新政府に集めなければならない。そして国民国家になって、外国の脅威を追い払わなければならない。大久保構想の、最大の障害が徳川慶喜でした。勝率が低かろうがなんだろうが、やらねばならぬことはやる。大政奉還後、まだまだ徳川慶喜たち旧幕府軍は強く、薩長軍の三倍の兵力で攻めかかってきました。しかし、薄氷の差で勝利しました。そして雪崩現象が起き、一気に新政府を樹立するのです。もしこの時、大久保利通の決断がなければ、明治維新はあり得なかったでしょう。

 

 1871年、大久保利通は『1度外国を見たい』との一念で遣欧使節団に参加します。そして、ロンドンで大久保利通は圧倒されます。『こんな国にどうやって追いつくのだ?』と。しかし、やらねばならない、それにはまず産業を興すことだ、と決意します。竹馬の友の西郷隆盛との決別など、大久保利通は多くの血を流しました。『大英帝国のような強い国をつくる!』という一念で。大久保利通は日本中の恨みを買い、殺された時は脳天を15回も叩き割られての惨死でした。それでも構わないとの覚悟があったのです。大久保利通、享年47歳でした。ちなみに、大久保利光の死後、『どれだけ懐に隠し持っているんだ!』という空気の中、大久保利通の遺産を調査されましたが、資産は膨大な借金のみで、ほとんど資産価値があるものは家にはなかったそうです。日本のことに人生を全て捧げたのです。これは大英帝国の礎を築いた小ピットに通ずるものがありました。大久保利通や西郷隆盛とともに三傑と言われた木戸孝允も、遣欧使節団で悟ります。『ポーランドのような善良で特に悪いこともしていない国が、弱いということだけで、列強に食い物にされている。弱いのはまともな政規典則がなかったからだ。ただ政規典則があればいいのではない。立派な政規典則を持つことが、強い国になるということなのだ』と。政規典則はConstitution の訳語です。まだ『憲法』が定訳ではなかった時代の話です。幕末維新の日本人はなぜ命を懸けたのか?大英帝国のような強い国になりたかったからです。まるで片思いの熱情のようでした。高杉晋作、大久保利通、木戸孝允が次々に亡くなりました。木戸孝允が病に倒れ、大久保利通が志半ばで狂人に殺され、彼らの遺志を継いだのは伊藤博文でした。

 

 今でこそ、大日本帝国建国の国父とされる伊藤博文も、最初から英雄だったわけではありません。むしろ、ダメ男でした。英国留学中に下関事件の報を聞くや故郷の長州に舞い戻り、講和談判の通訳になるのはいいのですが、英国の外交官をケムに巻くために高杉晋作が『古事記』を暗唱しだした時、何の役にもたたず、オロオロするばかりでした。岩倉使節団でアメリカに着いたときは、自慢の英語を駆使してアメリカ政府を説得!語学が出来ない大久保利通と木戸孝允が不安がるのを横目に、ここは自分の出番だ!一気に不平等条約改正まで持っていくぞ!と意気込んだのはいいのですが、全権委任状を持っていないかったので、交渉すらできなかった、という失態をしでかしています。明治政府は何の為に存在するのか?外国から押し付けられた不平等条約を撤回させるためです。旧幕府では撤回できないから、倒幕維新が必要だったのです。幕府は『お前の国は文明国ではない』と因縁をつけられて不平等条約を押し付けられました。ではどうやって、これを撤回させるのか?究極は軍事力です。戦争に勝って、実力を認めさせることです。現実の歴史はその道をたどり、日清・日露戦争の勝利で文明国だと認めさせました。軍事力の基盤は経済力です。だから、大久保利通は、『富国強兵』『殖産興業』とうわごとのように唱えていたのです。大英帝国の経済力、たとえば『ピット氏の黄金』が、戦争の勝利にどれほど重要か、英国の歴史を少し知れば一目瞭然です。明治の日本人は、必死になって産業を興し、爪に火をともすような思いをして軍艦を買い、帝国陸海軍をつくり上げました。また大臣の給料よりも高い給与で外国人教師を雇いました。多くの留学生が欧米に派遣され、文明国にふさわしい知識を身につけようとしました。

 

 不平等条約の撤廃への道のりは長いのですが、まずは伊藤博文の大日本帝国憲法制定のお話を次回にします。