足利義晴と細川晴元の仲違いは、六角定頼を悩ませた。六角定頼にとって、足利義晴は細川晴元とともにこれまで支えてきた同志であり、足利義藤(義輝)もまた自身が烏帽子親を務めた人物でした。一方の細川晴元もまた、自身の息女が嫁いだ娘婿であり、近しい存在でした。もし、細川晴元に味方すれば、足利義藤(義輝)の将軍としての権威を否定し、足利義維を将軍として認めることになてしまいます。そのため、六角定頼は足利義晴・義藤(義輝)父子と細川晴元を和解させようとしました。その一環として、大阪本願寺に嫁ぐことが内定していた細川晴元の息女を、足利義藤(義輝)の御台所にしようと画策しました。ですがこの話は強引すぎたため、うまくいきませんでした。その間にも、足利義晴・義藤(義輝)と細川晴元の関係は悪化し、細川晴元は各地で細川氏綱派を打ち負かし、京へと迫ってきました。1547年7月12日、足利義藤(義輝)と足利義晴の籠城する将軍山城は、六角定頼と細川晴元の大軍に包囲されました。苦悩の末に、六角定頼は細川晴元の方についたのです。とはいえ、六角定頼は足利父子に対して、細川晴元との和解を強いました。足利義晴は思いもよらない事態に進退を窮し、諸将を集めて、どうすべきかと諮問した。そんな場合ではないと思うのですが、この辺が呑気ですよね。この六角定頼の背反に関しては、六角定頼は足利義晴の支援者であると同時に細川晴元の舅でもあり、足利義晴による細川晴元切り捨ては容認できなかったと考えられます。足利将軍の一貫した支持者であると同時に六角氏と細川晴元との同盟を堅持する六角定頼の存在は、足利義晴の対細川京兆家の方針を拘束することになり、細川氏綱や三好長慶が細川晴元と敵対することで、本人の意思と関わりなく足利将軍とも敵対せざるを得なくなってしまう構造となったのです。

 

 同年7月15日、六角定頼は将軍山城包囲中のさなか、秘かに足利義晴に使者を送って細川晴元との和平の仲介を行っています。六角定頼の背反により、足利義晴は成す術を失い、全面的にその要求を受け入れざるを得なくなった。惨めなものですね。そういうことを想定できなかったのか疑問です。本当に呑気なものですね。7月19日、足利義晴は将軍山城に火を放ち、城を出て近江坂本に向かいました。その後、21日に三好長慶や三好政長らの軍勢が天王寺の東・舎利寺において、細川氏綱、畠山政国、遊佐長教の軍勢に大勝しました(舎利寺の戦い)。7月29日、足利義晴は舎利寺の戦いの報告を伝え聞くと、六角定頼の仲介のもと、細川晴元と坂本で和睦しました。近江が六角定頼の領国のため、表面上は細川晴元・六角定頼らの罪科を赦免とするという名目の下での和睦でした。このとき、足利義藤(義輝)は細川晴元と面会しましたが、足利義晴は細川晴元と面会しませんでした。合わす顔がないという感じでしょう。結果的に勝ち馬に乗ったのですから。他方、この和解により、細川晴元の支援していた足利義維は立場がなくなり、同年12月に堺から淡路に退去し、四国へと戻りました。何の為に堺に来たのかよくわかりません。足利義維も呑気ですよね。都合が悪くなるとポイ捨てになることは想定できたはずですが…

 

 この一連の争いは、細川氏の内部にも大きな影響をもたらしました。細川晴元は足利義晴・義藤(義輝)父子、細川氏綱、六角定頼に成す術もなく、三好長慶とその舎弟の力を借りざるを得ませんでした。その一方、三好長慶は弟たちと協力し、京から足利義晴を退去させた自身の力量を見て、父の仇敵である細川晴元からの独立を考えるようになりました。また、『細川両家記』には三好長慶がこの頃に範長から名を改めたことに関連して、三好政長・政生父子を細川晴元が成敗しない場合、自身が細川晴元を討ち果たす、内々の協議で決定したことが記されています。1548年4月、六角定頼は大和に入り、細川氏綱派の遊佐長教と面会し、細川晴元派と細川氏綱派の和解を取り付けました。これにより、細川一門の騒擾は収まり、畿内の政情も安定しました。束の間の平和です。そのため、6月17日に足利義藤(義輝)と足利義晴は坂本から京へと戻り、今出川御所に入りました。

 

 同年8月12日、三好長慶は細川晴元の側近らに対して、三好政長・政生父子の誅罰を求めた書状を送りました。三好長慶は細川晴元に兵を向けることを憚り、三好政長・政生父子の討伐を大義名分に挙兵する形となりましたが、細川晴元はこれに反発し、長慶の三弟・十河一存の切り崩しを図ったが失敗しました。完全に主家への反乱です。下剋上が始まりました。というのも、三好長慶は父親を三好政長の讒言により細川晴元が動き、死亡させたことをずっと恨みに思っていました。ずっと、細川晴元の鉄砲玉として戦ってきましたが、ずっと抱いていた、恨みを晴らすチャンスと見たようです。9月、三好長慶は軍事行動を開始し、細川氏綱方の遊佐長教に父子の思いを成し、一味する旨の起請文を送りました。『細川両家記』には、三好長慶が自身の訴えを無視して三好政長・政生父子を成敗しない細川晴元に激怒し、細川氏綱を京兆家の家督に据えることを決意し、遊佐長教に相談した旨が記されています。そして、三好長慶と三人の兄弟は細川晴元から離反し、細川氏綱の陣営に与したが、そこには畿内近国の守護代や国人が揃って味方しました。1549年5月28日、細川晴元が三宅城に入り、6月17日には三好政長が摂津江口に陣を敷きます。三好長慶は好機とみて、三宅城と江口の連絡を遮断するため、安宅冬康や十河一存に江口を包囲させました。6月24日、三好長慶と遊佐長教の軍勢は江口を攻め、戦いに勝利しました。 これにより、三好政長や細川晴元の側近らが大勢討ち死にしました。三好政生は榎並城を捨てて逃げ、山崎まで到達していた六角勢も退却しました。細川晴元もまた三宅城を脱出し、京に戻りました。同月28日、足利義晴は細川晴元に伴われ、足利義藤(義輝)をはじめ、近衛稙家、久我晴通などの公家衆、細川元常らをとともに、近江坂本の常在寺に逃げ込みました。その後、彼らと入れ替わる形で、7月9日に三好長慶が細川氏綱を奉じて上洛しました。三好長慶は足利義晴と細川晴元を京より追い払ったものの、摂津では伊丹親興が抵抗を続けたため、こちらとの戦闘に注力せざる負えなくなります。その間、12月12日には細川氏綱の命令と称して、堺を除く摂津欠郡に徳政を出すなど、三好長慶は摂津での支配を固めていきます。細川晴元の領地を奪うことに成功しました。

 

 1549年暮以降、足利義晴は「水腫張満」という全身がむくんだ状態の病に臥して、翌年の1550年正月になっても病状が改善しませんでした。1550年2月、足利義晴は京都奪還を目論み、東山の慈照寺の近くに中尾城を築きます。病状が改善しないのに野心だけは立派です。3月7日、足利義晴は坂本から穴太(現滋賀県大津市穴太)に移動し、4月には京と近江を結ぶ北白川にも城塞を築きます。ですが、この頃になると、足利義晴は病が重くなって動けなくなっていました。5月4日辰の刻(午前8時頃)、足利義晴は冬から患っていた悪性の水腫により、穴太にて死去しました。享年40(満39歳没)。その一方で、足利義晴の死の直後に奉公衆の進士晴舎から上野の横瀬成繁に充てられた書状には、足利義晴が「自害」したと記されており、病状の悪化によって進退窮まった足利義晴が自ら命を絶った可能性もありますが、僕は京都奪還に野心をむき出しにしていた足利義晴が自害したとは思えません。足利義晴は前々より、辰の日の辰の刻に死ぬと宣言しており、死の数日前から家臣を集め、今後のことを話していたといいいますが…5月7日、足利義晴の遺骸は東山慈照寺に運ばれ、21日に葬儀が行われました。足利義晴の葬儀はかなり簡素なものだったと伝えられています。この時、足利義藤(義輝)は穴太から比叡辻の宝泉寺に後退していたため、その葬儀に立ち会うことはありませんでした。

 

 数奇な運命をたどる足利義晴。将軍とは名ばかりで、諸国を転々として、ほとんど京都に居ることもなく、また、軍事力のある武将にコロコロ乗り替わる、悲惨な人生でした。いっそのこと、将軍を辞めてしまえば、諦めてしまえば、もっと違う人生だとは思いますが、やはり権力に取り憑かれると、おかしなことになるようです。それは息子、足利義輝にも引き継がれることになります。それは次回に。