足利義晴の朽木滞在中、細川高国は各地の諸大名のもとを遊説し、かつて足利義晴の入京に協力した播磨の浦上村宗の協力を得て、1530年8月に摂津に入っていました。足利義晴は六角定頼とともにこれに呼応し、上洛を試みました。ですが、1531年6月に細川高国・浦上村宗方は摂津大物浦において、赤松晴政の裏切りにあって、足利義維・細川晴元方の三好元長に敗北しました。これにより、浦上村宗は討ち死にし、細川高国は自害を余儀なくされました(大物崩れ)。この正念場の戦いで足利義春方は敗北を喫します。さらに、足利義晴は大きな後ろ盾であった細川高国を失いました。

 

 7月、足利義晴は細川高国の討ち死にを受けて、蒲生郡武佐の長光寺に移動し、1532年7月には六角定頼の居城・観音寺城山麓にある桑実寺に入りました。足利義晴が桑実寺に移った理由としては、日本海側へのルートが危険となったため、京に近い六角氏の庇護下に入る必要性を迫られたためと考えられています。足利義晴は以後、桑実寺において約2年間を過ごし、幕府政治を行いました。入京は遠くなりました…その間、足利義晴のもとには大徳寺など、京都の権門から訴訟が持ち込まれ、審議が行われました。訴訟の裁定が出来る権威が京都にはいなかったのでしょう。大徳寺が持ち込んだ訴訟の場合、かつて足利義晴を庇護していた奉公衆の朽木植綱を通し、足利義晴のもとに訴訟が持ち込まれていました。その採決もまた、六角定頼の意見が取り入れられるなど、庇護している六角定頼の意見が尊重されることになります。ずっとお飾りなんですね。また、1527年以降は若狭武田氏や越前の朝倉氏は出兵しなくなっており、細川高国という支柱を失った結果、足利義晴は近江六角氏を全面的に頼らざるを得なくなっていました。足利義晴が入京するためは、六角定頼の意見を重視せねばならず、足利義晴は細川高国に代わる存在として六角定頼の意見を求め、六角定頼も幕府政治に意見するという状態が続きました。

 

 1533年9月12日、朝廷は足利義晴の父・足利義澄に太政大臣を追贈しています。これは形式的なことで、やはり朝廷としても足利義晴を頼みにしていたことと思われます。10月以降、足利義晴は病気を理由として一切の面会を断ったため、足利義晴の決裁が必要な政務が滞り、翌年8月に政務が再開されるまでこの状態が続いきました。足利義晴の病状は『兼右卿記』には「虫気」と記されており、腹痛を伴う病気をであったと考えられています。1534年6月8日、義晴は前関白・近衛尚通の娘(慶寿院)を正室としました。この日の婚礼は雷のなる夕立の中で行われた、と記されています。足利義満以来、代々の将軍は日野家から正室を迎え入れていましたが、 足利義晴はさらに上位の近衛家出身の正室を迎えることにより、朝廷との関係強化を図ったと考えられます。また、義晴は桑実寺に滞在中、『桑実寺縁起絵巻』の作成を三条西実隆と土佐光茂に依頼していますが、京を離れていても京と強いつながりをもっていたのは、この頃の足利義晴の強みでもありました。

 

 一方、堺幕府の内部でも争いが起こっていました。細川高国の死により、足利義維が上洛し、新たな将軍になるかと思われていましたが、1531年8月には細川晴元の御前衆である木沢長政と細川持隆の支援する三好元長の争いが原因で、堺で細川晴元と細川持隆の両者が互いに籠城して争うという事態が発生しました。同族同士でよくやるよという感じですね。1532年5月、足利義維方の抗争は止むことなく、畠山義堯は細川晴元への接近を図る自身の内衆でもある木沢長政を飯盛山城に包囲しました。これに対して、細川晴元が山科本願寺法主の証如に援軍を依頼し、6月には一向一揆が畠山義堯を討ったばかりか、20万の軍勢が堺を包囲しました。一向一揆に攻められた三好元長は顕本寺で自害し、足利義維も同寺で自害しようとしましたが、細川晴元に捕らえられました。10月20日、足利義維が堺を出て淡路に没落したことで、和睦の障害が消え去りました。そして、11月7日に足利義晴と細川晴元の間で和睦が成立しました。

 

 1534年6月、足利義晴は桑実寺から坂本に移りました。すでに、六角定頼と細川晴元との間にも和睦が成立していました。入京を目前にして、奉公衆や奉行衆は政務の再開を連名で足利義晴に依頼し、8月から足利義晴は政務を再開しました。9月、足利義晴は六角定頼とともに入京しました。念願の京都に戻ってきました!ただし、六角定頼は京に留まらりませんでした。六角定頼は在京中に国内の有力国人が伸長すること恐れており、また、京都で攻められると、必ず負けるということを知っていたので、在国しながら幕府政治への意見を望みました。

他方、細川晴元もまた、三好長慶や木沢長政らとともに上洛し、足利義晴を擁立する政治体制が開始されました。当時、京都に出仕していた大名は、細川晴元と同族の細川元常(和泉守護で三淵晴員の実兄)しかおらず、近江在国の六角定頼を加えたこの3人と足利義晴の協調の下で一時的な安定を迎えることになります。束の間の平和です。また、六郎の仮名を長年名乗り続けてきた細川晴元であったが、1535年に足利義晴の偏諱を受けて、細川晴元と名乗りを改めています。なお、1537年に細川晴元は六角定頼の猶子(実父は三条公頼)を妻に迎えています。足利義晴が帰京すると、様々な案件が舞い込むようになって、多くの政務処理が求められた結果、定期的に開かれる審理日だけは追いつかなくなりました。また、管領に代わるべき六角定頼が上洛しなかったこともあり、足利義晴は京における政務の補佐・代行者を必要としました。1536年3月10日、嫡男の菊幢丸(のちの足利義藤、足利義輝)が誕生すると、8月27日に足利義晴は将軍職をこの菊幢丸に譲る意向を示しました。その際、菊幢丸を補佐し、政務を代行する「年寄衆」を指名しています。その後、足利義晴は引退を撤回しましたが、その8名(大舘常興・大舘晴光・摂津元造・細川高久・海老名高助・本郷光泰・荒川氏隆・朽木稙綱)の年寄衆は、後に内談衆と呼ばれて足利義晴政権の政権運営を支える側近集団となりました。

 

 1541年9月6日、三好長慶と三好政長が共同で旧細川高国系の国人・塩川国満を攻め、一庫城を包囲しました。三好長慶は摂津で勢力を広げており、旧細川高国系の国人と衝突が相次いでおり、この年の7月にも三好長慶と三好政長が上田氏を攻め、自害させていました。当時、細川高国の後継者でもある細川氏綱が旧細川高国派の結集核として台頭しつつあり、塩川国満のように細川氏綱に味方しようとする国人もいました。そのため、塩川国満の内縁であった伊丹親興と三宅国村は木沢長政を頼り、9月29日に木沢長政が弟を援軍として伊丹城に派遣すると、10月2日に三好長慶らは敗北し、各々の居城に退去しました。その前日の10月1日、木沢長政は伊丹親興と三宅国村とともに、大舘尚氏に三好政長の成敗を訴えたが、幕府は細川氏内部の問題として介入しませんでした。一方、細川晴元は三好政長に味方し、木沢長政を避けて洛北に退去しました。11月2日、足利義晴は細川晴元側として、近江坂本に逃れた。またもよや、京都から非難です。木沢長政の行動が足利義晴や細川晴元に認められないという状況になると、三宅国村が細川晴元に帰参しました。さらに、同月18日に足利義晴は山名氏や仁木氏に対して、細川晴元に協力する旨の御内書を発しました。12月20日、足利義晴は天文の一向一揆の反省を踏まえて、石山本願寺の法主・証如に対して、河内の門徒が木沢長政に味方しないよう御内書を発しました。同月中、三好長慶と遊佐長教の間で、木沢長政を討つ相談が行われ、木沢長政は孤立無援に陥りました。1542年3月17日、三好長慶、三好政長、三好長教らは木沢長政を太平寺の戦いで討ち、その首を足利義晴のもとに送りました。これを受けて、同月に足利義晴は京に帰還し、新しい御所の造営に着手しました。

 

 やっと京都に戻れた、足利義晴ですが、この戦いで勝った三好長慶が勢力を伸ばし始めます。そうなると、足利義晴と対立します。その模様は次回に。