2月11日は建国記念日でした。祝日です。建国記念日とは日本国が建国した日ということでの祝日で、僕も以前はざっくりとそういう認識でした。日本が建国した日なんだ~という理解でしたし、そこに深く突っ込もうとは思っていませんでした。しかし、約10年ぐらい前から、経済に興味を持ちだし、経済を分かる為には政治がわかならなくてはいけない。政治がわかる為には歴史がわからなければならないという流れの中で、僕の歴史好きもあって、日本の歴史を良く良く勉強することになりました。日本の歴史を勉強すればするほど、調べれば調べるほど、日本国の建国を認定するのは難しいことだとはっきりとわかりました。日本の起源がそもそも曖昧で、いまだに論争が起きています。とくに有名なのは邪馬台国の九州説、畿内説です。不毛な議論ですが、いまだに白熱しているようです。僕は以前、僕のブログで、この邪馬台国の九州説、畿内説のお話をしています。もし、興味のある方は『日本の歴史』で検索してみてください。簡単に結論を言いますが、邪馬台国は九州にありました。そして邪馬台国が大和朝廷になったのではありません!僕の調べた結果の結論が様々な矛盾点を誰もが納得させられる仮説ですが、そういう仮説を一部で唱えている人がいますが、一般的にはならないようです。不毛な議論は歴史学会の人は飯のタネになりますから、ずっとやっているのでしょう。とはいえ、日本国の起源は認定するのが難しいのです。では、なぜ、建国記念日が制定されているのか?実は、そもそも建国記念日というのは日本国が建国した日ではないのです。もっと別の意味があるのです。結果的には日本国が建国したというところになるのですが、真の意味を知らないのは日本人として恥ずかしいことだと思うのです。

 

 そもそも、祝祭日と言いますが、祝日と祭日は違うものです。現在ではごっちゃになっていますが、本来は祝日、祭日、国民の休日と3つに分かれているのです。

 

 祝日とは何かというと、戦前に四大節といわれるものです。

 

 ・四方拝 ➡ 元旦

 ・紀元節 

 ・天長節

 ・明治節 

 

 と呼ばれていました。紀元節は2月11日。この日に神武天皇が即位された日ということで、古事記に記載があります。当時は太陰暦でしたので、太陽暦に替えた明治政府によって、計算されて、この日になりました。天長節は今上天皇の誕生日です。明治節は明治天皇を讃える日で、11月3日になっています。現在では文化の日となっていますが、もともとは明治天皇の誕生日なのです。

 

 祭日はと言いますと、

 

 ・春季皇霊祭 ➡ 春分の日

 ・秋季皇霊祭 ➡ 秋分の日

 ・新嘗祭    ➡ 11月23日

 

 それ以外の休日を国民の休日というくくりになります。なぜこんなことになったのかというと、GHQが介入してきたのです。


 現在では『国民の祝日に関する法律』でごっちゃにされてしまっていますが、祝日と祭日には起源があり、意味があったのです。そもそも、GHQによる占領下におかれた日本で、『天皇の催事による祝日はけしからん!』という一方的な圧力で、祝日や祭日が消されるという事態になりました。当時の日本の政治家は名称を変更することにより、祝日として残したという経緯があります。ですから、紀元節を建国記念日、明治節を文化の日、新嘗祭を勤労感謝の日にすることにより、何とか消滅を免れたのです。でも、戦前を生きてきた人たちはこの意味をよく理解していました。しかし、そういう人達が年月とともに、少なくなっていくと、この意味自体を知らない人が増えてくるということになります。これは歴史が時間とともに、抹消していくことだなと思うのです。これはGHQの方針で日本の文化伝統、歴史を抹殺するというミッションですから、それには乗ってはいけないと僕は思うのです。ちなみに5月3日は憲法記念日ですが、日本国憲法を『ゴミ』だと思っていた、だから、5月3日にした。当時の吉田首相はそのように命名したという話があります。これは文献では残っていませんから確かなことではありませんが、日本国憲法をゴミ扱いしていて、ゴミの日を当てるセンスは吉田首相にはありました。そのゴミのような存在、アメリカに押し付けられた憲法を後生大事に守り続ける人たちがいるというのも滑稽です。当時の政治家はまだ気概があり、日本国憲法をゴミ扱いしている点が今の政治家よりもずっとましのような気がします。

 

 

 日本にどれだけ、建国記念日が神武天皇の即位の日だということを知っている人がいるのかは疑問ですが、日本人にとってはこの教養は受け継いでいかなければいけない大事なことであると僕は思っています。暫定的に名称を変えたものを、どう考えるかは後世の人達の使命ですが、復活させようとは思いませんが、知らないことはマズイと僕は思います。歴史的意味が確固としてあり、それを受け継いで、その意味を後世に残すのが僕たちの役割ではないでしょうか?