足利義教は将軍就任、当初は有力守護大名による衆議によって政治を行っていた足利義教だが、長老格の畠山満家、三宝院満済、山名時熙の死後から次第に指導力を発揮するようになっていきました。待ちわびていたことだったと考えられます。足利義教は将軍の権力強化を狙って、斯波氏、畠山氏、山名氏、京極氏、富樫氏の家督相続に強引に介入し、意中の者を家督に据えさせました。1439年の永享の乱では、長年対立していた鎌倉公方足利持氏を滅ぼした。比叡山延暦寺とも対立し、最終的にこれを屈服させたものの、僧侶達が根本中堂を焼き払って自殺する騒ぎとなった。足利将軍の中では父の3代将軍足利義満に比肩しうる権力を振るった足利義教だが、猜疑心にかられて過度に独裁的になり、粛清の刃は武家だけでなく公家にも容赦なく向けられました。当時の公家の日記には、些細なことで罰せられ所領を没収された多くの者達の名が書き連ねられています。中には遠島にされたり、殺された者もいた。また1392年の南北朝合一以来、細々と存続を続けてきた後醍醐流宮家に対し、これを「根絶やしにするという方針を打ち出したのも足利義教です。急速に権力を手中に収めるやり方としてよいか悪いかどうかは別にして、足利義教は悠長なことを選択せずに、急速に権力を治めるための手段として、万人恐怖の政治を行ってきたものと推定します。いったん崩れた、足利幕府の立て直しにより、将軍親政を行い、有力大名の頭を押さえていくというやり方で、九州も統一し、日本全土を統一した、最大版図の室町将軍です。しかも、問題になっていたものからどんどん手を付け、力で屈服させるという手段を取っています。そういう強引なやり方は必ず恨みが生じて、危害を及ぼす展開になってしまいます。

 

 足利義教はそのやり方を全うするがごとく、次々に行っています。幕府の最長老格となっていた赤松満祐は足利義教に疎まれる様になっており、1437年には播磨、美作の所領を没収されるとの噂が流れていました。足利義教は赤松氏の庶流の赤松貞村(持貞の甥)を寵愛し、1440年3月に摂津の赤松義雅(満祐の弟)の所領を没収して赤松貞村に与えてしまいました。このため赤松満祐は5月頃に病気と称して出仕しなくなりました。 同じ頃、大和出陣中の守護一色義貫と土岐持頼が足利義教の命により誅殺されました(大和永享の乱)。1441年4月、足利持氏の遺児の春王丸と安王丸を擁して関東で挙兵し、1年以上にわたって籠城していた結城氏朝の結城城が陥落しました(結城合戦)。捕えられた春王丸、安王丸兄弟は、護送途中の美濃垂井宿で斬首されてしまいます。これより先の3月、出奔して大和で挙兵し、敗れて遠く日向へ逃れていた足利義教の弟の大覚寺義昭も島津忠国に殺害されており、足利義教の当面の敵はみな消えた形になりました。6月18日、足利義教から家督介入の圧力を受けた家が逃亡、出奔し、弟の富樫泰高が後を継ぎました。23日には吉良持助が出奔しています。足利義教に嫌われたもの、歯向かったものは皆、逃げてしまっているようです。そいうしないと暗殺されてしまうからです。これぞまさしく恐怖政治ですね。

 

 6月24日、足利義教運命の日です。赤松満祐の子の赤松教康は、結城合戦の祝勝の宴として松囃子(赤松囃子・赤松氏伝統の演能)を献上したいと称して西洞院二条にある邸へ足利義教を招きました。この宴に相伴した大名は管領細川持之、畠山持永、山名持豊、一色教親、細川持常、大内持世、京極高数、山名熙貴、細川持春、赤松貞村で、足利義教の介入によって家督を相続した者たちでした。ですから、足利義教は味方ばかりと思って油断したのかもしれません。他に公家の正親町三条実雅(正親町三条公治の父、足利義教の正室正親町三条尹子の兄)らも随行しています。一同が猿楽を観賞していた時、にわかに馬が放たれ、奥の方から鈍く轟く音が聞こえました。足利義教は「何事ぞ」とつぶやき、傍らに座していた正親町三条実雅は「雷鳴でありましょう」と答えました。その直後、障子が開け放たれるや甲冑を着た武者数十人が宴の座敷に乱入、足利義教を斬殺しました。足利義教の首をとったものは安積行秀と伝えられます。酒宴の席は血の海となり、居並ぶ守護大名・近習達の多くは即座に退出しました。抵抗をしたのは、守護大名の大内持世、京極高数、近習の細川持春、山名熙貴、走衆の遠山某のみであったとされています。山名熙貴は即死、京極高数と大内持世も瀕死の重傷を負い、後日死去しました。細川持春は片腕を斬り落とされ、正親町三条実雅は、献上された太刀をつかみ刃向うが、切られて卒倒しています。庭先に控えていた将軍警護の走衆と赤松氏の武者とが斬り合いになり、塀によじ登って逃げようとする諸大名たちで屋敷は修羅場と化しました。赤松氏の家臣が、将軍を討つことが本願であり、他の者に危害を加える意思はない旨を告げる事で騒ぎは収まり、負傷者を運び出し諸大名は退出した。足利義教、享年48(満47歳没)。あっけないない暗殺劇でした。この暗殺劇を嘉吉の変と言います。万人恐怖も暗殺されるということで、恐怖政治は終了することになります。

 

 強権的であった将軍が殺害されたことで指揮系統が混乱したため、京都市内(洛中)ではそれ以上の混乱は生じず、赤松満祐・教康父子は討手を差し向けられることもなく播磨に帰国します。 7月6日、足利義教の葬儀が等持院で行われた。 7月10日には赤松満祐討伐の第一陣として赤松貞村が出兵し、7月11日には細川持常・山名教之が出陣しました。二ヶ月半後、山名持豊(宗全)らに追討されて赤松満祐父子は死亡し、赤松氏嫡流家は一旦滅亡しました。足利義教の後はまだ幼少の子の足利義勝が継ぎ、足利義勝が程なく病没すると、その弟の足利義政が継ぎます。まだ幼い将軍が続くことで、足利将軍の実権は低下していくこととなり、絶対的な強権を誇った足利将軍は足利義教で実質最後となってしまいました。

 

 足利義教は室町幕府将軍の中で、最大版図を築き、様々な問題を強引な強硬策で、解決していきました。しかしやり方が問題で、恐怖政治であったため、暗殺されるという憂き目になりました。足利義教の没後、室町幕府の権力は急速に落ち込み、有名無実化していきます。しかも好き放題に有力大名がしていくので、どんどん存在価値が薄れていきます。それを加速させるのが足利義政と応仁の乱なのですが… とはいえ、足利義教の評価が低いのは、歴史上、抹殺させている存在なのはどうも解せない謎です。やはり独裁政治はいかんという風潮が、足利義教という独裁者を抹殺させていったのでしょう。とはいえ、独裁者は他にもいると思うのですが…この嘉吉の変で、時代は一気に変わってしまいます。室町幕府的にはどんどん衰退し、政治的にはグダグダが続くことになります。原因を作ったのはこいつです。そのこいつのお話を次回にいたします。こいつの名前は足利義政です。