日本国内で牧歌的な光景が繰り広げられている頃、ヨーロッパでは破滅の足音が近づいています。主役はカイザーことヴィルヘルム2世と、ハプスブルク家の最後を象徴するフランツ・ヨーゼフ1世。ふたりとも可哀想な人でした。ヴィルヘルム2世の治世を見てきて、彼は小賢しい策謀を巡らせては失敗していることに気がつきます。露仏を結ばせ、日英を結ばせ、露仏同盟と日英同盟を共倒れにさせようと思っていたら、両方が敵に回り、取り囲まれるという…さらにアメリカを味方につけようとしているのに、メキシコと二股をかけて、アメリカを敵に回し、メキシコも味方にはならないという失敗が続きます。ではこれが、すべてヴィルヘルム2世の責任かというと、そうとも言えないのです。誰にも責任がない当時の体制がにこそ、問題があったのです。というのはドイツの政治家は27年間もビスマルク一人に任せきりでした。その後で、ヴィルヘルム2世は『親政』を気取りますが、能力が伴いません。ついでに言うと、しょっちゅうドイツを離れるので、国内での影響力が大きくないのです。ヴィルヘルム2世からすれば、政治をやっていても面白くないので、外国に逃げ出したくなるのです。結果、政治は官僚に丸投げされます。しかし、本来、官僚は政治家が決めたことを実行するのであって、大事なことを決める政治家ではありません。ヴィルヘルム2世時代のドイツは官僚が好き勝手なことを主張して、場当たり的に動いているから、支離滅裂な国策になるのです。『最良の官僚は最悪の政治家である』とドイツの社会学者マックス・ウェーバーは述べています。まさに、ヴィルヘルム2世時代の政治を批判しているのです。

 

 フランツ・ヨーゼフ1世に至っては、自分自身が官僚のようなものです。目の前のことを処理しようと一生懸命になればなるほど、オーストリア帝国の状況は悪化していきました。そして、フランツ・ヨーゼフは家庭生活も不幸でした。弟のマクシミリアンはメキシコで皇帝になったものの、革命派に銃殺されます。皇太子ルドルフは憤死します。(マイヤーリンク事件) 皇后のエリザベートは夫の気苦労を知らず、そこら中をほっつき歩き世間を騒がせます。社交界で遊びまわるのならいざ知らず、護衛を放り出して街中を本当にほっつき歩くような人です。挙句に暗殺されました。そして、甥で皇位継承者のフランツ・フェルデナントも暗殺されています。ちなみに本人は皇位継承者でしたが、その子供への皇位継承は認められていませんでした。妻の身分が低く、『貴賤結婚』とされたので、宮廷の反発で皇太子ではなく、皇位継承者とされたのです。この皇位継承者、フランツ・フェルディナント殿下は日本に来日して、回顧録を残しています。

 

 第一次世界大戦は、何の必然性もなく発生しました。マヌケの連鎖から起こった、偶発的事件です。

 

 運命の1914年6月28日、サラエボ事件が発生します。セルビア人の爆弾テロ銃撃によって、フェルディナント夫妻が殺され、世界中に戦争が連鎖しました。この日、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの州都サラエボを皇位継承者夫妻がパレードをしていました。6月28日は聖ビストの日といって、セルビア人が大切にしている記念日です。こんなのは、バルカンを少しかじれば誰でも知っている知識なのですが、なぜよりによって、こんな日にパレードしたのか?テロを察知した警備関係者はフェルディナント夫妻のパレードの道順を変えますが、そこにセルビア人のテロリストがいました。爆弾が爆発する前に察知したのならば、そこで止めておけばよいのに何を考えているのか?最後、フェルディナント夫妻は銃弾の餌食になります。哀れなのは、フランツ・フェルディナントはセルビア人に融和的で、優遇政策を主張してハプスブルク家宮廷では嫌われていたほどなのです。殺す必要のない人なのです。ハプスブルク家宮廷の貴族たちは、笑いをかみ殺しながら、セルビアに対する強硬論で固まります。皇位継承者へのテロなので、セルビア政府に対して、最後通牒を突きつけることになりました。オーストリアは最後通牒を突きつけることで、同盟国のドイツに事前連絡をしますが、ヴィルヘルム2世は中身を確認する前に『白紙委任』します。こんな大事な話でなんてことを…バルカン半島は、すでに直近二年で二度も戦争が起きている火薬庫です。ヴィルヘルム2世本人も含めて、ドイツ人は死ぬほど後悔しましたが、後の祭りです。

 

 オーストリアの最後通牒は、セルビアが主権国家であることを否定する条項がズラリと並んでいました。さすがのセルビアもシャレにならない空気を察して、ほとんどを受け入れます。ただし、オーストリア人の判事を犯人の裁判に参加させろという要求だけは拒否しました。判決はオーストリアに悪いようにはしないという密約を持ちかけてのことではありましたが… これをオーストリア政府は『誠意がない』と一蹴し、総動員令をかけます。同盟国のドイツも慌てて、総動員令で追随します。これに対して、セルビアの後ろ盾のロシア、その同盟国フランス、三国協商を結ぶイギリスも総動員令で応じます。ヨーロッパの南東での出来事が北西の独仏国境の緊張につながります。双方の陣営とも戦争にはならず、相手が折れるだろうと舐めていましたし、たとえ戦争になったとしても、クリスマスまでには勝てるだろうと高をくくっていました。英仏露の3国協商は独墺を挟み撃ちにしているので、油断していたのです。一方のドイツにも勝算はありました。ドイツ陸軍参謀本部はアルフレート・フォン・シュリーフェン前参謀総長が作戦計画を残していました。シュリーフェン・プランです。要するに、ロシア相手の東部戦線では緒戦は最小限の防備で持ちこたえ、西部戦線では守りの堅い独仏国境を避けて、中立国のオランダとベルギーを通って、フランスに侵攻し一気に踏みつぶし、取って返して、ロシアを粉砕するという目論見です。これ、戦闘機と爆撃機と戦車と機械化歩兵がないと不可能なのですが…むしろ、シュリーフェンの意図は露仏を同時に敵に回す愚を政治家に示すために策定したとしか思えません。実際の戦闘では、西部戦線で手間取り、一方、ロシアの守りのほうは弱かったのですが、そんなことやってみなければわかりません。シュリーフェン・プランは現職参謀総長の小モルトケによって変更されました。ロシアへの守りを増やし、西部の攻勢に使う兵力を減らす、中立侵犯はベルギーだけにして、オランダは攻めない、です。現実の攻勢がうまくいかなかったので、小モルトケは『お前が変更したせいだ!』と長らく批判されていましたが、最近の軍事史の常識では元の計画自体が実行不可能だという点が理解されてきています。ただし、ベルギーを攻めれば、イギリスが自動的に参戦するという認識が出来ていなかった点は批判は免れません。

 

 当時のベルギーは表向きは永世中立国ですが、実態はイギリスの傀儡国家です。ドイツとフランスの間にあるベルギーは独仏いずれにも極端に強い力を持たせないように挟んだクッションのような国なのです。そういう国を緩衝国と呼びます。さらにブリテン島とベルギーの距離は対馬と釜山よりも近いのです。ベルギーが敵対国になれば、即座にイギリスの安全保障の危機です。さて、ここまでいくつかの偶然とマヌケが重なったのがわかると思います。どこにも必然性がありません。必然で言うなら、英独は経済的に結びついていました。英独双方にとって戦うことは莫大な経済的利益を失うことです。戦わない必然しかありません。第一次世界大戦に必然性などありません。マヌケと偶然がもたらした悲劇なのです。