ある意味、生きていく上では勝ち負けの競争にさらされているのが現状です。それは子供の頃からの教育からそうなってしまっています。ゆとり教育の時に手をつないで徒競争を行い、皆でゴールするという異様な光景がありましたが、真意はわかるものの、やり方に問題がありすぎます。この競争のシステムは教育上では1小学校がどうにかできる問題ではないからです。全体を改善する必要性があるからなのです。中学校までは義務教育ですが、高校からは違います。しかし、ほとんどの生徒が高校に進学します。高校の入試では学力に沿った学校を選ばざる負えず、そこでは偏差値なるものが活躍します。もし、競争原理をなくすのならば、この偏差値という概念をぶっ壊さなければいけません。偏差値はテストでの成績の数値化です。この数値の値が高い順から合格できるシステムです。これは大学入試も同様です。つまり、成績の競争原理が偏差値にあらわされており、それを基準にして、高校や大学に振り分けられるということです。この基準がある限り、競争原理はなくなりませんし、競争が生まれるということは勝者と敗者があるということになります。こういう原理を子供の頃から叩きこまれていると、競争に勝つことが使命のように感じてしまう人達も多いです。そのヒエラルキーの頂点が大学では東大であり、就職先では財務省事務次官なのです。人生に競争をし続けることにどんな意味があるのかはわかりませんが、大抵の人はその前に競争から降りてしまうのが現状だと思います。ただこの競争は大学を卒業してからも、就職先で繰り広げられるものです。現代の企業は成果主義、能力主義を基本として、人事考査を行う企業が多いですから、会社の中でも競争が激しく行われることになります。

 

 この企業の中での競争はいわゆる出世の競争です。結果が出たら、昇進。結果が出なければ、降格というシンプルなものです。それを人事評価するのがその部署の上司なのですが。実は、企業のなかでの競争はテストという、明確なものがありません。ノルマとか結果とか業績とかありますが、本来会社の中では個人で何とか出来るという業績は少なくて、部署全体とか、チームで結果を出すということが多く存在します。こうなっていくと、個人の評価はどうなっていくのでしょうか?ざっくり言いますと、その上司の好き嫌いで評価は分かれるのです。その上司の中では明確な基準があるのですが、その基準は絶対的なものではなく、あまりにも個人的な物差しなのです。正当な評価など存在しません。事実、これは同級生の企業である程度、高い管理職についている人から複数人に聞いたのですが、AとBという社員がいます。AとBは能力的にも、成果的にも同じぐらいの人物です。Aからは盆暮れに必ずお届け物が届けられますし、暑中見舞い、年賀状は必ず送られてきます。それに対して、Bはそういう風習は一切行いません。どちらかを昇進させる、または評価をあげるかというと、Aの方なのです。つまり、賄賂は健在ですし、有効なのです。上司の方も受け取る以上は悪い気がしません。逆に送ってこない人を会社の業績とは関係なく、できないやつというレッテルを付けたりします。つまり、正当な評価など存在せず、仲が良いとか、受けがいいとか、賄賂をもらっているとかで、評価は上げることができ、競争には勝てるのです。何とも汚い手を使うものだと言っても、負け犬の遠吠えです。この競争では誰にどれだけ効果的なアピールが出来るかどうかで決まりますし、評価される側は結果以外にもこういうことに気がつく人なのです。これも事実ですが、お中元、お歳暮を贈りまくって、出世した人は存在しました。そういうことをやっている人は金に転ばない人はいないと豪語していましたし… 何しろ賄賂や貢ぎ物を受け取るということは味方を得たのと同じですから、出世には友好的ですし、いざという時は助けてくれます。こういう競争があるのが企業内では一般的です。部下の立場にいるのならば、こういうことをうまくやるのが競争に勝つ秘訣です。仕事が出来ても出世などは出来ないものなのです。まあ、こういう習慣が横行する企業はいざという時に潰れてしまうのが関の山ですが…

 

 さて、こういう学校でも、会社でも競争原理が働くとなると、当然、勝者と敗者が出来てしまうのですが、それは何の勝者で、何の敗者なのでしょう?確かに、受験した高校なり、大学に不合格の烙印を押されたら、敗者と言えなくもないです。また、合格したら、勝者と言えるかもしれません。でも、ただ単に合格の有無の話であって、勝ち負けの話ではないと僕は思います。これは単に受け取る側の受け取り次第だと思うのです。会社内でも出世するしないや、解雇やリストラ対象はまずいですが、仮に辞めさせられたところで、単に退社したことですから、敗者ではありません。また違う場所で働きたいのならば、働けばよいことです。受け取る方が負けた、敗者だと思うことがヤバいです。また、一方で、合格したから、出世したから、勝ったと思うのも、調子に乗って、傲慢になり、天狗になったりするので本当にやばいです。こういうマインドがいつしか、勝ち組、負け組と区別するような流れになるのですが、もう一度お聞きしたい、何に勝って、何に負けたのでしょうか?これはひとえに、謎の自意識と、承認欲求と、誰かという対象がある場合であると考えますが、そんなことはどうでも良いことだとは思いませんか?誰かという対象自体も厄介です。謎のマウント取り合戦や優越感に浸るなど、どうでも良いことだと僕は思うのですが…好きな人は好きにやっていけばよいと思いますが、そういうくだらないことで、劣等感を持つことはおかしなことだと僕は思います。

 

 僕は、競争原理を、勝ち負けを人生に持ち込むな!と思っています。みんなが楽しく暮らせればそれで良いではありませんか?なぜ、比較しようとするのでしょうか?好きにやれば良いし、好きなことをすればよいし、それは自分の意思で決定すればよいことだと思うのです。人生には勝利も敗北もありません。また、人と比較することでもありません。それらにこだわっているということは凄く貧しいマインドの持ち主だと僕は思います。中には勝負の世界で生きる人もいます。でもそれは特殊事情の人で、仕事であったりします。でも人生=仕事と思っている人は終わっていると僕は思っています。仕事の中に自分の好きなことを取り入れて行っている人たちもいますが、こと仕事になると、好きなことが嫌いなことに変わるのが正常だと思っています。まあ、なににしても例外はありますが。大抵の人は仕事と人生はイコールではありませんし、人生に勝ち負けは存在しません。よく、死んだ後に、その人の功績がわかるとか言われてますが、これも間違っていると思います。死んだ後に、涙を流してくれる人がどれだけいるかでその人の価値がわかるとか言います。不思議です。まず、その当人が死んだら、死んだ後のことはどうでも良いはずです。また、死ぬ前になぜ、気にかけて、会いに行かなかったのでしょうか?なぜ気にかけなかったのでしょうか?電話で、気軽にできる時代ではないでしょうか?死んでからでは遅いのです。さらに、涙は本当に悲しい時には出てきません。これらはすべて、残された者たちの自意識を満たすものであり、当人には一切関係ないことなのです。こんなことに勝ち負けをこだわっている場合もありますから、凄く不思議な感じがします。

 

 人生には様々な選択肢があって、選択したことが正解なのです。適正解とも言います。そして、勝利とか敗北とかはありません。何に対してなのかがよく分かりません。もし、誰かを想定していたり、世間に対してだったり、社会に対してだったりするのならば、なんて、心が貧しいのかと問いてください。人生はそういうものではないはずです。心を豊かにして、何に対しても楽しく、笑えていれば、こんなに素敵なことはないと思います。そういうものを目指すべきことだと僕は思っています。