1899年、イギリスは植民地である、南アフリカの反乱に手を焼いていました。ボーア戦争です。これに、ヴィルヘルム2世は拍手喝采をしています。他人の不幸が三度の飯より好きな性格の人はいるものです。1900年、清国で義和団というカルト宗教集団が暴動を起こします。暴動は波のように広がり、革命前夜の様相になりました。このカルト集団は外国人排斥を掲げ、首都北京に集まります。北清事変です。清朝政府は取り締まるどころか、義和団の尻馬に乗り外国に対して宣戦布告をするような有様です。日英米仏露独墺伊の八か国の外交官や駐在武官、そして民間人はバリケードを築いて立てこもり、凶悪な暴徒相手に籠城戦を繰り広げます。いわゆる『北京の55日』です。1900年6月20日、義和団はドイツ公使のケッテラーを殺害します。外交官の殺害など、文明国の所業ではありません。民間人だからいいというわけではありませんが…また日本公使館書記生だった、杉山彬という人も殺害されています。居留民救出のため、八か国は連合軍を編成します。もちろん主力は隣国の日本です。時の首相は四度目の組閣となる伊藤博文です。伊藤博文は桂太郎陸軍大臣に速やかな対応を命じ、連合軍は一気呵成に北京を攻略します。略奪暴行を繰り返す他国軍に対して、日本軍は軍記厳正でチャイニーズすら日本軍の陣地に助けを求めに来る有様です。大勢が決した後、ドイツ陸軍のアルフレート・フォン・ヴァルダーゼー元参謀総長が連合軍最高司令官として北京にやってきました。今さら何をしに来たかとしか言いようがありませんが。ビスマルク辞任後のドイツの首相の交代は激しく、後継首相の座を狙うヴァルダーゼーを遠方に追いやろうと、政敵が『今なら世界元帥になれますぜ』と耳打ちしたのを真に受けたとか。この後に特に取り決めや約束事がなされた形跡がないので無能だったのでしょう。

 

 北清事変が一段落した後も、ロシアは満洲に居座ります。また、日清戦争後は李氏朝鮮王朝は清を見捨てて、ロシアを宗主国と仰ぐような有様です。日本からすると、東アジアは全て敵です。しかも超大国のロシアが日本列島を狙っているわけです。こうした状況をヴィルヘルム2世が見逃すわけがありません。そもそも、三国干渉はロシアが西のドイツではなく、東の日本に向かうように仕掛けた策謀です。ヴィルヘルム2世は昨日まで喧嘩を売るかのごとき態度であったイギリスに友好を呼びかけます。名目は『清国での双方の権益を保障し合おう』です。1900年10月16日、英独協定が成立しました。揚子江協定とも言われています。こういうことをやりながら、第二次艦隊法で海軍の増強と拡張を決めるのですから、支離滅裂です。一応、ドイツ国内の理屈を説明しておくと、海軍拡張方針に変わりはないが、中国大陸での権益擁護は個別の協定が必要だということになります。イギリスはボーア戦争にかかりきりで、とてもアジアにまで手が回らないというじょうきょうなので、ドイツの意向を呑んだ形になります。

 

 今度はヴィルヘルム2世は、『英独協定に日本を交え、三国同盟にしよう』と持ち掛けます。どういう風の吹き回しか?ロシアがアジア勢力を独占するのが嫌になったのか?何を企んでいるのかわからないけれども、ロシアに対抗できる英独との三国同盟に、小国日本には乗らない理由がありません。しかし、一筋縄ではいかないのが、ヴェルフェルム2世です。1901年3月15日、ドイツのベルンハルト・フォン・ビューロー首相は、『英独協定は満洲に適用せず。』と議会で言明しました。だったら、ロシアの脅威に対し、なんの牽制にもなりません。その三日後の3月18日に英独同盟交渉が開始され、ほどなくして駐英公使が『日英独三国同盟』を正式に提唱するのですから、何を考えているのでしょうか?林薫駐英公使の問い合わせに、イギリス外相のランズダウン侯爵は『英独協定は満洲にも適用』と回答しています。イギリスの思惑は、日本の権益を守ることだけではなく、ロシアの勢力拡大を抑えることです。ロシアに安全を脅かされている日本とも思惑が一致しています。三国同盟交渉はのっけから波乱含みなのです。

 

 6月2日、日本の首相は桂太郎に代わります。ビスマルク時代に留学した、生粋の陸軍軍人です。伊藤博文ら元老から見れば、第2世代で、実力も当初は二流と思われていましたが、思わぬ大物です。前首相で筆頭元老の伊藤博文はロシアとの開戦を避けるべく行動をしていました。一方で桂太郎首相は日英同盟に傾斜します。伊藤博文は大国ロシアとの開戦を避けるべく、自らロシアの首都サンクトペテルブルクに飛び、満韓交換に基づく、日露の協調を模索していました。一方で桂太郎は日英同盟に傾斜していくのです。当たり前の話ですが、伊藤も桂も役割分担をしています。ロシアから見れば、日本など、歯牙にもかけない小国です。どだい、話し合いに乗ってくるわけがないのです。いずれは武力対決を覚悟しなければならない相手なのですから、イギリスを味方につけようとするのは当然です。仮にヴェルフェルム2世が何を考えていようとも…伊藤博文はダメ元でロシアに和平を打診しているにすぎません。企業でも、社長が中身のあることをして、会長がキレイごとを振りまく、というのは良くある話です。12月23日伊藤博文自ら、日露協定交渉の打ち切りを通告したとあります。本当に筆頭元老の自分に黙って、桂太郎が出し抜いたのなら、こんなことしないでしょう。

 

 1902年1月30日、日英同盟が結ばれました。桂内閣小村寿太郎外務大臣はいつの間にかフェイドアウトしたドイツを無視して、日英同盟に邁進します。ロシアに勝つ為には日本はどうしても日英同盟が必要でした。そのきっかけをヴィルヘルム2世が与えてくれたのです。ヴィルヘルム2世にはそれなりの思惑があったと思うのですが、この後、すべて裏目に出ます。日本にとっては越えなければいけない決戦があります。日露戦争です。

 

 次回はそのお話を。