ナポレオン戦争後のウィーン会議で決まったこととして、フランス革命以前の体制に戻そうという反動主義が挙げられます。フランス革命以前の体制は王様、貴族たちによってはぬるま湯のように都合の良いことだから当然です。しかし、フランス革命の破壊力はすさまじく、各地域で影響された人たちによって、火種としてくすぶっている状態でした。しかも、過去に戻すという行為はヨーロッパは好きですが、動き出した時代はどんどん変化していきます。それがナポレオンの強さにも関与しているのです。

 

 なぜ、ナポレオンは強かったのか?原因はいろいろありますが、革命以降の長い戦争を通じて、フランスが国民国家になっていたからです。簡単に言えば、王様に金で忠誠を誓っている傭兵は戦場ですぐに逃げるけれども、国民軍は逃げ場がないので、必死に戦うのです。ナポレオン戦争の前半まではフランス軍が優位でしたが、他の国が戦えるようになったのは、徐々にフランス流の国民国家システムを導入したからです。ナポレオン戦争が終わった時、ヨーロッパからは傭兵がいなくなっていました。国民国家化と国民軍の創設が本格化するのはナポレオン戦争が終わってからです。徐々に導入したシステムが本格的になるのには時間がかかるのです。

 

 プロイセンは兵制改革で国民軍創設を試みます。シャルンホルストやグナイゼナウ、カール・フォン・クラウセヴィッツ等、優れた教育者に恵まれ、プロイセンはヨーロッパ随一の陸軍強国となっていきます。プロイセン陸軍が国民国家ドイツの中核に今後なっていくのです。ドイツ国民の、ドイツ軍による、ドイツです。

 

 さて、『一つの国民、一つの国家』などと言われて困るのはハプスブルク家です。神聖ローマ帝国以来、ハプスブルク家は複数の民族を統治してきました。ハプスブルク家がこの時点で統治している地域を現在の国名でいうと、オーストリア、ドイツ、イタリア、ハンガリー、ポーランド、チェコ、スロバキア、ルーマニア、スロベニア、クロアチアにまたがります。民族がバラバラです。そして、ゲルマン民族以外の人達もフランス革命で、自由の空気に触れました。ポーランドに至ってはナポレオン時代に一時的に国の独立を回復しているのです。だからこそメッテルニヒは『反動主義者』と呼ばれるほどに自由を求める声を弾圧し続けました。

 

 そして、メッテルニヒの治世が30年を超えた1848年、『諸国民の春』と呼ばれるヨーロッパ同時多発革命が起きます。ちなみにこの年は、カール・マルクス、フリードリッヒ・エンゲルスの『共産党宣言』が発行された年で、アブナイ空気が漂っていました。

 

 1848年2月 フランスで革命が起き、王政は打倒。大革命以来の共和政体が生まれていました。

 3月 ベルリンで革命が発生し、軍隊と暴徒が市街戦を行うまでになります。プロイセン政府は民衆をなだめるために欽定憲法を発布します。

 同じ、3月、ウィーンでも革命が起きました。時の皇帝フェルディナント1世はメッテルニヒの罷免を迫られます。主敵にされたメッテルニヒはロンドンに亡命しました。

 

 1815年の英露仏墺普の5大国体制はウィーン体制と呼ばれます。『諸国民の春』の後も、この5大国体制は崩れていないので、広義にはウィーン体制は健在です。しかし、メッテルニヒはウィーン体制の象徴のような存在と化していましたから、狭義にはここでウィーン体制は崩壊したとみなされています。革命の波はロシア以外のヨーロッパ全土に広がります。イギリスですら、政府打倒の暴動が起きました。ただ、フランスの共和政体も数年で、ルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)に乗っ取られます。全ての革命は政府の勝利で終わりました。

 

 1848年12月、フェルディナント1世は人心を抑えるために退位し、オーストラリア帝国皇帝にはフランツ・ヨーゼフ1世が就任します。

 

 悲劇の皇帝です。