観応の擾乱では、足利直義、足利尊氏、そして足利直冬が南朝に降伏するということがお決まりになっていました。その都度、南朝は京都に攻めては来るのですが、結果的には尻尾を巻いて逃げ帰っています。しかも、乱が収まると、降伏の条件がなかったことになるという足利時代ならではの状況が展開されています。この時代は天皇皇室の権威が一番貶められた時代でもあります。よく、南北朝の争いとひとくくりにされて、教科書で書かれていますが、そんなに単純なものではなく、実情は複雑怪奇な状況であることはお分かりでしょう。特に北朝方の有力実力者、足利直義や北朝方の征夷大将軍である足利尊氏が南朝に降伏しているのですから、何やってるの?といいたい感じですね。こういう例があると、足利直冬が南朝に降伏しても、大したことはないというようになってしまいます。今後、観応の擾乱が収まった後も、北朝で左遷されたり、失脚した人たちが南朝に寝返るということが日常化されていきます。ですから、南北朝の時代は継続されていくのです。

 

 さて、足利尊氏と足利直冬の父子の戦いです。

 

 足利直冬は1355年1月20日に京都に侵入し、東寺に本陣を置きます。2月6日に足利尊氏方は佐々木道誉、赤松則祐、細川頼之らの軍勢、足利直冬方は山名時氏・師義、吉良満貞、石塔頼房、楠木正儀らの軍勢で合戦が始まります。京都市街地で激戦が始まるのです。この時の足利尊氏の戦い方が、『戦場でも笑みをたたえていた』ということですから、もう死ぬことが全く怖くないような人にしか見えてなかったそうです。戦場だと、恐怖を見せずに笑みまで見せる様な、そういう人にみんなはついていくのでしょう。足利尊氏の謎のカリスマがさく裂しています。戦況は一進一退ですが、次第に、足利直冬を見限り、足利尊氏に降伏するものが相次いでいくのです。

 

 足利直冬方は次第に劣勢になり、3月8日になると、足利直冬の直属部隊である、桃井直常が敗走します。足利直冬方は敗色濃厚になります。足利尊氏は3月12日に足利直冬が立てこもる、東寺に突入し、足利直冬は八幡へと敗走します。この時の直冬軍は東寺の宝蔵を破って、略奪をしています。足利直冬は部下の掌握統率することもできない状態であったことがわかります。3月13日、足利尊氏は東寺で首実検をします。当然期待したのは直冬の首でしょう。足利尊氏の執念のすさまじさには閉口します。諸将は敗軍の将である足利直冬を見捨てて四散します。直冬の東寺での敗戦以降、九州の畠山氏も足利尊氏に降伏し、足利直冬が組織的合戦を行った形跡はなくなりました。この合戦で、観応の擾乱の最終ラウンドは終了します。京都を脱出した、足利直冬は安芸に落ち延びていきます。

 

 京都を脱出した足利直冬に対して、足利尊氏は追っ手を差し向けます。安芸に落ちのびた足利直冬は勢力を盛り返そうと画策しますが、人心を掌握することができません。完全に人心は離れてしまいました。それでも、なぜか足利直冬は殺されることなく生き延びています。後に、足利義満に許されて、約40年の長い晩年を74歳の長寿を全うするまで生きたそうです。その間、何もできなかった、しなかったのですから、何の為に京都に攻めていったのかわかりませんし、諸将も足利直冬を頼りにするようなことはありませんでした。何とも言えない隠遁生活だと思います。

 

 1358年、足利直冬との戦いで、背中を負傷した足利尊氏の病は重症化していきました。重病のはずの尊氏でしたが、南朝が旧直冬派を従えている九州への親征を計画します。島津師久の要請もあり、九州に下向して、旧直冬派の畠山直顕を討伐しようとしましたが、それを足利義詮が必死に食い止めました。1358年4月30日、足利尊氏は背中の負傷が原因でこの世を去ります。足利尊氏は戦いの連続でしたが、戦場ではなく、畳の上で亡くなるというこういうところにも謎のカリスマ性を持ち合わせていました。

 

 足利尊氏が亡くなったからといって、戦乱が収まるはずがありません。戦乱を治め切る前に亡くなってしまったので、後継者の足利義詮にしてみれば、とんでもない遺産です。しかも足利義詮は無能ですし、カリスマなど持ち合わせていません。南朝も未だに健在ですし、戦乱の火種はそこら中にあります。足利義詮はどうしていくのか?それは次回に。