ちょっとドイツのお話からずれることかもしれませんが、ヨーロッパのお話であり、フェリペ2世がハプスブルク家ですから、ドイツと関係ないことはないのです。ハプスブルク家の分家のスペインの絶頂期はハプスブルク家をも絶頂期にさせる原動力となります。今回はそのお話と、その後の宗教戦争のお話になります。

 

 カール5世とフェリペ2世の時のスペインは大航海時代と呼ばれ、世界にどんどん進出していきました。コルテスやピサロが南米に進出してはアステカ文明、インカ文明、マヤ文明などのアメリカ大陸の文明をことごとく潰し、植民地支配をしていく流れになっていきます。植民地ではあらゆるものが搾取され、その富がすべてスペインに吸収されるというシステムが出来上がります。征服者といわれていますが、人としては残忍で、恐ろしい存在でした。征服された人々にとってはたまったものではありません。ある日、海からっやってきて、蹂躙され、搾取され、奴隷化されるわけですから、酷い時代です。スペインの最盛期は南アメリカ、中央アメリカの大半、メキシコ、北アメリカの南部と西部、フィリピン、グアム、マリアナ諸島、北イタリアの一部、南イタリア、シチリア島、北アフリカのいくつかの都市、現代のフランスとドイツの一部、ベルギー、ルクセンブルク、オランダを領有していました。まさに『日の沈まない国』の完成です。世界にたくさんの航路を開拓しますが、なぜか、大西洋周りだったり、インド洋に向かう際にわざわざ、南アフリカの喜望峰を経由して、行っています。なぜ近くの地中海を通過しないのでしょうか?

 

 その答えはオスマン・トルコ帝国には全く歯が立たなかったからです。

 

 1571年、レパントの海戦で、教皇&スペイン&その他大勢の連合軍はオスマン・トルコ帝国を破ります。しかしこの戦いはまぐれ勝ちです。なぜかというと、その後の地中海の制海権は以前としてオスマン・トルコ帝国が握っていたからです。プレヴェザの戦いでは完膚なきまで叩きのもされていますし…まだまだヨーロッパが束になってかかっても、オスマン・トルコ帝国に歯が立たなかったのです。そういう状況で、スペインは『無敵艦隊』と宣伝しても、実情はこんな感じなのです。強いやつとは戦わないというセオリーは守っています。

 

 ちなみにフィリピンの名前の由来はフェリペ2世です。スペインに征服されて、その名を未だに国名にしています。この当時、スペインは中国にも日本にも征服する色気を出していました。なぜ織田信長が日本を統一しようと考えた動機はこのスペインの脅威を知っていたからだと考えています。

 

 ところで、プレヴェザとレバントの戦いは知っていても、アルカセル・キビルの戦いは無名でしょう。これは1578年、モロッコのアルカセル・キビルの戦いで、ポルトガルはオスマン・トルコ帝国に大敗しました。この大敗をきっかけにフェリペ2世はポルトガルと同君連合を組みます。そうしないと、オスマン・トルコ帝国の脅威には対抗できないからです。とはいっても、勝てるわけがありませんから、オスマン・トルコ帝国の範疇外で植民地からどんどん搾取していったのです。この結果、大量の富がスペインに流れ込むことになります。その流れで、ヨーロッパのハプスブルク家の栄華は絶頂を極めます。帝国皇帝の選挙ではスペインが後ろ盾となり、必ず皇帝はハプスブルク家から出るように工作をします。買収ですね。帝国も潤うことになっていくのです。世界各地からかき集めた富がスペインに行き、それが帝国を私物化しているハプスブルク家に行くという流れです。

 

 しかし、ハプスブルク家の反発も強くなります。フランスの抵抗は相変わらずですし、異教徒のオスマン・トルコ帝国に忠誠を誓ってでも、何とか潰されないようには必死に抵抗します。そういう中、スペイン領ネーデルランド(オランダのこと)は独立戦争を挑んでいきます。スイスも事実上、の独立国として振舞います。実は、スイスも、オランダもカルヴァン派の国なのです。フランスも当時はカルヴァン派の勢力が強大です。スペインは魔女狩りの本場ですし、オーストリア・ハプスブルク家はカトリックを守護するという大義名分で神聖ローマ皇帝に就いています。つまり、ヨーロッパの主要争点は宗教問題なのです。

 

 ここで覚えて欲しいことはオーストリア・ハプスブルク家は婚姻は得意だけれど、戦争はあまり得意ではないということです。なにせ、2度もスイス遠征に失敗しています。八方を大国に囲まれている小国スイスが永世中立を保てるのは、ひとえに、ハプスブルグ家の戦争下手の賜物なのです。この戦争下手はハプスブルク帝国が滅びるまでずっと続く伝統です。

 

 宗教問題は実に厄介な展開になっていきます。1608年カルヴァン派が同盟を結成すれば、翌年にはカトリックが連盟を作り、対抗します。ルター派の3勢力がにらみ合うという不穏な空気が帝国に漂い出します。そして、1618年、プラハ窓外放擲事件を合図に、ヨーロッパ史上最大にして、最後の宗教戦争となる、30年戦争が勃発します。

 

 この悲惨な宗教戦争の模様は次回に。