そもそも、コンテンツを見る人々は何かを知りたいと思って、コンテンツを見ると思います。それが楽しさだったり、娯楽だったり、それは人それぞれでしょう。昨日もお話ししました、知りたいことにはざっくりと三つの階級があって、ライト級、ミドル級、ヘビー級があります。これらのことを見せてくれるのがコンテンツであると思います。このコンテンツの作り手側にはそういう思いがあると思います。でも、作りで側にも大きな縛りがあります。それは商業主義というものです。要するにヒットしなければ、売れなければ、成立しないということです。その為に、コンテンツは大体、ライト級の階級で、心地よく見れるような作りになってきています。このように、コンテンツは商業主義という縛りがありながらの、作り手側の思いがどう伝わるのかを表現したものです。

 

 いわゆるエンターテーメントといえるものを麻酔系と言われます。ほぼほぼコンテンツはこの麻酔系です。麻酔系は麻酔にかかったように心地よく、眠らせてくれるものです。夢だったり、妄想だったり、憧れだったり、知っていることだったり、自説の肯定であったり、自説の代弁だったり、知っている落ちが待ち構えているものですし、ハラハラドキドキするけど、やっぱりそうだよなと思えるものです。あ~これで良かったね。気持ちよく寝れるわ。やっぱりそうなるよね。人生はそんなもんだよね。という着地点があります。これがほとんどのコンテンツには適用されます。人が心地よくなるからです。麻酔系は人には受け入れやすいものなのです。ですから、商業的にも売れる可能性、成功する可能性、ヒットする可能性が極めて大きいものです。そして、見た後は疲れることがなく、時には癒され、時には楽しんでという体験ができます。なぜ、麻酔系が大半であるかというと、日々、日常で、仕事などで、人は疲れています。ですから、さらにコンテンツを見て、疲れるようなことはしたくないのです。難しいことは考えたくないのです。ぐっすり眠れるということは大事なことだと思います。日々の暮らしはとても苦しいけど、それはそれでおいておいて、楽しさを体験したい。そういうコンテンツが見たいということはとても良いことだと思います。僕は麻酔系は否定しているわけではなく、麻酔系のコンテンツが売れるのも、エンターテーメントはそういうものであるということも肯定しています。楽しまさなければいけないということは作り手側には最低限持っておかなければいけない要素だと思うからです。

 

 とはいうものの、それで良いのか?それでは人生は変わらないぞ!と思う人もいるのは事実です。それでは何も変わらない。何か自分を変えたい、自分の人生を変えていきたい。なぜ苦しいのか、どうしてそうなるのかという疑問を持つ人の助けになり、一緒に、考えていこうぜというコンテンツが覚醒系です。僕はこの覚醒系コンテンツを探していますし、見たことも聞いたこともない世界を体験することが好きです。覚醒系は現実の発見、常識の破壊、古い自分からのお別れ。こうなってくると、ハードランニングになります。とても疲れます。難しい話になります。感想としては「俺とは違う。」「意味が分からない」「訳が分からん」というものになってしまいます。これは、自分のと思っていることと違う。自分の常識が全否定されるということは非常に困ることなのです。眠らせはくれません。自分が信じていたものの足元が大きく揺らぐ事態になります。こういう事態が嫌な人は覚醒系のコンテンツを見ない方が良いでしょう。しかし、何かがあって、一旦はまってしまい、覚醒系コンテンツをみると、目が覚めることがあります。今まで、もやもやっとした霧が晴れる瞬間が出てくるのです。そうかそういうことだったのかという深い理解が得られます。今まで信じていたものがウソだとわかると、新しいものの考え方ができるので、昨日とは違う、自分にしてくれます。それは視野が広がり、世界が変わったような感じがしてきます。そうなると、悩んでいたこと、苦しかったことが解決できる可能性が出てきます。僕はそういうものを欲していますし、好きなのです。年を取っていけば、時代も変化していきます。、それにより、自分をバージョンアップさせることは必要であると僕は思っています。

 

 さらに、麻酔系と覚醒系のハイブリットのコンテンツが存在ます。これは名作といわれるものに多く備わっています。この映画を観て、このドラマを見て、このコンテンツを見て考え方が変わったという作品は希少価値ですが、存在します。「翔んで埼玉」はこのハイブリット作品だと僕は思っています。コメディーの要素があり、その奥に深いテーマがある。結果的に、深いメッセージ性を帯びた作品に仕上がっているという作品はとても楽しいものです。ただ残念なのは「翔んで埼玉」の作り手側のスタッフにもこの壮大な奥のテーマが理解されておらず、最後にはなわの歌でのエンディングは違うと思いました。あそこは二階堂ふみとガクトのデゥエットによる、「なぜか埼玉」をブルース風に歌うべきでした。そうなると凄くしっくりきます。まあ、そういうことはおいておいて、ハイブリットはわかる人にはわかる、わからない人でも面白いという二重構造で、とても壮大な仕掛けになっています。わりかし、映画というコンテンツはこういうことがしやすコンテンツになっています。ただし、日本には予算制約があるので、非常に難しいことにはなるのですが…

 

 このようにコンテンツは大まかに3つの種族値に分けられると思います。あとは見る人次第の気持ち次第になります。自分をバージョンアップさせたい人、このままの自分にではない自分、いろいろな世界を見て、自分の考え方を広く大きくしたいという好奇心のある人は覚醒系コンテンツに行くべきだと僕は思います。これはコンテンツに限らず、いろいろな場面で、いろいろな行動を起こすことにより、体現できるものであると思います。例えば旅行でも、そうですが、日常と違う体験をするだけで、覚醒系と同じ作用があります。あとは自分の感受性をどれだけ広げて、たくさんのことを感じ取れるか、気づけることができるのかということにかかってきます。それはそれで素敵な体験だと思います。僕が危険だと思うのは思考停止をしないことだと思います。年齢がある程度行くと、この思考停止という病が襲い掛かります。理解し、考えようとはせず、イメージや思い込みで判断してしまうことです。現に、それで犯罪に巻き込まれる人もいれば、洗脳が解けなくて、反日活動を行う人もいます。これらは悲劇であると僕は思います。この年齢だから、これぐらいの常識は持っていると言う人に限って、中学生から変わっていない、全然成長していない、年齢だけ積み重ねている大人になっていきます。それはそれで良いのかもしれませんが、僕は絶対に嫌です。今回の新型コロナ騒動で、本当に向き合わなければいけに自体がいろいろな場面であったと思います。そういうチャンスを与えられたのかもしれないと僕は思っています。ではそのチャンスをものにできたのか?それは向き合わなければいけに事だと思います。ここで思考停止になっていては不幸が重なるだけだと考えます。しかも思考停止という病は本当の病を引き起こすことにもなります。

 

 思考停止の話は次回にします。