最近のチベットに対する中国の武力弾圧で思い出した映画がある。



君の涙ドナウに流れ ハンガリー1956



昨年秋民主党の岡田元代表がメルマガで紹介していたので知った。

トレーラー見るだけでなんか胸にくるものが。


愛国心、弾圧、スポーツにかける情熱、祖国への祈りの勝利、自由への渇望、愛


昔のソ連と今のロシアは変わりない、というか、今のロシアの人権弾圧が他民族とともにロシア国民をひどく痛めつけているのが現状だ。たいした罪でもないのに警察のノルマ稼ぎのために投獄され、罪を負わされた人間は一生を「前科者」の烙印とともに棒に振ることになる。ロシア人においてですらそうなのだから、チェチェンにおいては尚のこと。


世界中で大国や権力は自由を求める人たちをあいも変らず痛めつけ続けている。

チベットで行われているのと同じように。


チベットの弾圧で人権について関心をもった人たちに知っておいて欲しいことがある。

チベットで弾圧されてよくないことはどこにおいてもよくないことだ。ということ。


デモをすることは迷惑だという風潮が市民に根強くある国、

思想的なチラシを配っただけでも迷惑だと市民からの通報によって逮捕される国、

デモをすることはよくないことだと匂わせるような報道機関がある国、

教師の集会が「周囲に迷惑がかかるから」とホテル側から拒絶される国、

自治体の命令に背いた人間が教職を負われる国、

は、人権的な視点から確実におかしいということを。


誰もが自分の国や子供をよくすると思われることを話し合ったり、広く一般に訴える権利があるのだ。

自由主義国家の国民として、他人のそれを認める義務があるのだ。


日本人は先の大戦で血を流した先人たちの教訓によってそれを手に入れたのだ。

国家を批判するものを弾圧してきたことのおろかさを血を流すことによって身に沁みて知ったのだ。

誰もやすやすと自由を手にしたりしていない。

だから、そういう歴史を背負った国の国民として、自分の自由と同様に、他人の自由も守らなくてはならない。

同じおろかな道を歩まないように。

権力側が「人権」を訴える人を批判し、「国家や自治体の意にそぐわない人間の職を奪う」といったような圧力をかけたりしてはならない。


日本は今の中国のようになってはならない。中国を批判するように、どこの国で行われている弾圧も批判しなければならない。

武力でなくても圧力は圧力だ。

誰も心の火を踏みにじる権利は持っていない。