「~~しないと子供が可哀想」なる言い草がキライだ。
大抵は親の自己満足である場合が多いし、この「可哀想」に当てはまる子供を見下している感があるから。
たとえば、今俺が住んでいる地方では
「小学生のうちに一度東京ディズニーランドに連れて行かないと可哀想」
なる風潮がある。よって、小学校卒業の生徒が春休みのうちに駆け込み的にディズニーランドに行ったりする。
馬鹿馬鹿しい。
別に「東京ディズニーランド」でなくても、「小学校最後の旅行の思い出」だったら日光だろうが伊豆だろうがどこだっていいはずなのに、「みんなが望む幸福」の定型を「東京ディズニーランド」としているのである。
本場とか香港のディズニーランドでもいいわけだが、これをやると「金持ち」「変わってる」と定型から外れる。
俺が子供の頃は「他人を身なりで判断してはいけない」と親から教わったものだが、
今では逆に子供が親にそれを言ったりする。
俺の行っている道場で、見学中の母親連中が俺が知らない同じクラスの子の話題になっていたのだが、
「あの子はいつもしみのついた服を着ている」「袖口が汚れている」
といった話をしているのを聞いて、その「子供をあざけって面白がっている口調」に嫌気を覚えたところ、
その母親たちの子供の一人が、
「おかあさん、そんなこと言っちゃダメなんだよ!!」と言い、
それに続いて他の子も「そうだよ!」と言い出したので俺はほっとしたのだ。
母親たちは「あー、そうでした、ゴメンゴメン」とケロっとしていたが、子供にこんなこと諭されて恥ずかしくならないのだろうか。少なくとも、子供の前で他の子供をあざけるような発言は避けるべきだと思う。
そういう、他人の子供の身なりをよく観察してあざけっている母親連中が口にするのは
「子供が着たい服を着せてやらなければ可哀想」
まあ、みんながうらやむブランド服ってことになるんだろうが、そんなの着せてるのは一部の金持ち母さんだけだ。この場合は「子供の望むようにしてやった感」が親の自己満足に繋がるみたいだ。「じぶんはよく子供のことを見てやっている」という優越感から、上記のような「してもらえない子供は可哀想」みたいな見下げ視点ができあがるんだと思う。
俺の通ってる道場は結構月謝の高い厳しいところなのだが、やはりスポ少で俺クラスの指導員に習わせてるユルい親(すんませんいつも感謝してます)と意識が違って、先生の話では「うちの子供が入賞できないなんておかしい」「結果が残せないなら他の道場に行く」とゴネる親がいるそうだ。(幸いにして俺はそんな苦情今まで一回も受けたことがないのでビックリした。)
俺が教えているところで親からよく言われるのは「礼儀が身についた」とか「落ち着きがでた」とか「体が丈夫になった」とかで、あまし大会の結果とかは最初から期待されていないが、
この道場に通わせてる親にとって道場通いは「習い事」の一環で、「みんなが通っているから」とか、
「やりたいことをやらせてあげなかったら可哀想」という理由が多い。
でも、結局は親の欲づくで「金と送り迎えのテマヒマ」を考えると、「入賞トロフィーやら賞状」が欲しくなったりするんだろうな。挙句には「一生懸命やっているのに入賞できないなんて子供が可哀想」
子供にも向き不向きがあるし、あがり症だったり、体調にもよって結果を残せないこともある。
でも、習ったことは子供にとって決して無駄にはならないと俺は思うんだが、
なんでも可哀想可哀想って甘やかしてんじゃねえ。
大抵は親の自己満足である場合が多いし、この「可哀想」に当てはまる子供を見下している感があるから。
たとえば、今俺が住んでいる地方では
「小学生のうちに一度東京ディズニーランドに連れて行かないと可哀想」
なる風潮がある。よって、小学校卒業の生徒が春休みのうちに駆け込み的にディズニーランドに行ったりする。
馬鹿馬鹿しい。
別に「東京ディズニーランド」でなくても、「小学校最後の旅行の思い出」だったら日光だろうが伊豆だろうがどこだっていいはずなのに、「みんなが望む幸福」の定型を「東京ディズニーランド」としているのである。
本場とか香港のディズニーランドでもいいわけだが、これをやると「金持ち」「変わってる」と定型から外れる。
俺が子供の頃は「他人を身なりで判断してはいけない」と親から教わったものだが、
今では逆に子供が親にそれを言ったりする。
俺の行っている道場で、見学中の母親連中が俺が知らない同じクラスの子の話題になっていたのだが、
「あの子はいつもしみのついた服を着ている」「袖口が汚れている」
といった話をしているのを聞いて、その「子供をあざけって面白がっている口調」に嫌気を覚えたところ、
その母親たちの子供の一人が、
「おかあさん、そんなこと言っちゃダメなんだよ!!」と言い、
それに続いて他の子も「そうだよ!」と言い出したので俺はほっとしたのだ。
母親たちは「あー、そうでした、ゴメンゴメン」とケロっとしていたが、子供にこんなこと諭されて恥ずかしくならないのだろうか。少なくとも、子供の前で他の子供をあざけるような発言は避けるべきだと思う。
そういう、他人の子供の身なりをよく観察してあざけっている母親連中が口にするのは
「子供が着たい服を着せてやらなければ可哀想」
まあ、みんながうらやむブランド服ってことになるんだろうが、そんなの着せてるのは一部の金持ち母さんだけだ。この場合は「子供の望むようにしてやった感」が親の自己満足に繋がるみたいだ。「じぶんはよく子供のことを見てやっている」という優越感から、上記のような「してもらえない子供は可哀想」みたいな見下げ視点ができあがるんだと思う。
俺の通ってる道場は結構月謝の高い厳しいところなのだが、やはりスポ少で俺クラスの指導員に習わせてるユルい親(すんませんいつも感謝してます)と意識が違って、先生の話では「うちの子供が入賞できないなんておかしい」「結果が残せないなら他の道場に行く」とゴネる親がいるそうだ。(幸いにして俺はそんな苦情今まで一回も受けたことがないのでビックリした。)
俺が教えているところで親からよく言われるのは「礼儀が身についた」とか「落ち着きがでた」とか「体が丈夫になった」とかで、あまし大会の結果とかは最初から期待されていないが、
この道場に通わせてる親にとって道場通いは「習い事」の一環で、「みんなが通っているから」とか、
「やりたいことをやらせてあげなかったら可哀想」という理由が多い。
でも、結局は親の欲づくで「金と送り迎えのテマヒマ」を考えると、「入賞トロフィーやら賞状」が欲しくなったりするんだろうな。挙句には「一生懸命やっているのに入賞できないなんて子供が可哀想」
子供にも向き不向きがあるし、あがり症だったり、体調にもよって結果を残せないこともある。
でも、習ったことは子供にとって決して無駄にはならないと俺は思うんだが、
なんでも可哀想可哀想って甘やかしてんじゃねえ。