神鵰剣狭(狭侶)読み終わりました。
- 金 庸, 岡崎 由美, 松田 京子
- 神〓剣侠〈5〉めぐり逢い
ああ、面白かった。
射鵰英雄伝と同じにラストが続編の登場人物を出したりして急ぎすぎとか、成長した郭じょう(字が出ない)の内面を追うのにシフトしてしまって4巻まであれほど丁寧に描写していた楊過、小龍女の心理描写がおろそかになっているとかいろいろありますが、
やはりものすごいこう燃える漢心を鷲づかみされます。ボーーー!!
自分がいままで読んできたアクションマンガとかもこの小説の影響を受けているんじゃないかと思える部分がチラホラ。
金庸先生のあとがきもなるほどなーと思いました。
本書は楊過というキャラクターを通じて、人の心や行動に対する世間の礼法や習俗の枷を書こうともくろんだ。礼法や習俗は一時的なものだが、それが存在しているときは、巨大な社会的力となる。師匠と弟子が結婚できないという考えは、もちろん現代人の脳裏には全くないけれども、郭靖や楊過の時代ではごく当たり前のことだった。そうすると、私たちが今当たり前だと思っている数々の決まりや習慣も、数百年後には何の意味も持たなくなる可能性が大きいのではないだろうか。
道徳規範やら行為の基準やら風俗習慣といったものは、社会的な行動様式であって、常に時代と共に変わるけれども、人間の性格や感情はそれほど激しく変動するものではない。
三千年前の『詩経』に見られる喜びや哀悼、思慕、悲痛の思いは、今の人々の感情とあまり大きな違いは無い。個人的にいつも感じていることだが、小説の中では、人の性格や感情が社会的意義より大きな重要性を持っている。郭靖の「国のため、民のためこそ侠の中の侠」という言葉は、今なお肯定的な意味を持っているが、私は、将来国境が消滅するだろうし、そのとき「愛国」や抗敵」などの観念は大した意味がなくなると信じている。しかし、親子兄弟の感情、純粋な友情、愛、正義感、善意、そして人助けや社会貢献といった感情やヒューマニティは今後も長く賞賛され、いかなる政治理論や経済制度、社会変革、宗教信仰でも代替できないように思う。
これは金庸先生が1962年に書いた文章だが、この時代の金庸先生の志より現代の東アジア社会はかなり後退しているように思えて仕方が無い。互いに「抗敵」で民衆の感情を煽り、「家族愛」を奨励した上にいきつくのが「愛国心」なのだと、上に立つものが下々のものに捻じ曲がった「敬意」を強制する流れは、大戦を乗り越えた人間たちが目指したであろう世界像から大いに逆行しつつあるのではないだろうか。