直木賞作家が子猫殺しをエッセイで書いていた件、ブログネタにはなると思っていたけど、ニュースでもちゃっかり取り上げていたので「もっと他に報道すべきことがあるだろう!!」と別な意味で怒りを覚えた。

まあ、最近の「食いつきよさそうな事柄ならなんでもニュース」な節操のなさではこれがニュースになるのも通例なのかもな。(アライグマが立ってもニュースになるご時世よ。嘆かわしい。)


でも、ブログネタにはなると思っていたので浅ましくも取り上げるわけだが(笑

俺も猫の避妊手術に当たっては結構グチグチ過去悩んだクチなので、かねてより思うところはあった。


ここにでないが他のブログにこう書いた。


鈴木さん(うちの6ヶ月のネコ。)が発情したので、発情を止める薬を貰おうと行きつけの獣医に電話したら、「この機会だから避妊手術しちゃいましょう」と言われた。(中略)

獣医も、ペットの相談サイトでも、「発情はストレスになるから、繁殖させない場合避妊を」と屈託が無い。でも、そのあまりの屈託の無さが俺を不安にする。
いろんな言葉が頭をよぎるのだ「命の選別」だの「命の連鎖の意図的切断」だの。
この間CNNで「欠陥のある遺伝子を子孫に残すのは罪悪」と誇らしげに語っていた女性に対して、俺は激しく嫌悪感を持ったのに。(中略)
近所には勝手に繁殖している野良猫がたくさんいる。佐藤さんもその中の一匹で、うちの庭先で鈴木さんたちを生んだ。しかし、うちで生まれたことで鈴木さんは子供を持つ望みを絶たれることになる。野良猫とうちの猫、どちらが幸せなのかよく分からない。


うちの飼い猫佐藤さん(元野良)は野良生活の中で何かに足を挟んだのか、片方の前足の先が変形していて、つめが引っ込まない。(中略)

「お前鈴木さん(佐藤さんの子供)の避妊手術がイヤダイヤダって言ってたけどさー、野良で生まれても子供は4%しか生き残んないんだって。だからアレはアレでいい選択だったと思うよ」(兄談)


いなくなった中の一匹

今年も近所の公園で子供がたくさん生まれて、不審な白い車がきて急にいなくなった。

行政でも子猫殺しは行っているらしい。
上記の「とりあえずうちの猫になった」佐藤さん(猫)が、うちの庭先で子供を生んだとき、うちのばーさんは「そんなの川に投げて(捨てて)来い!」と言ったし、母は「保健所に持っていく」と言った。

俺や兄夫婦がそういうことを決断するにはひ弱だったため、「川に捨てる」「保健所に持って行く」といった行為の倍の労力を払って子猫の貰い手を捜し、母猫と一匹の子猫がうちにいつくことになったが、取り繕ってもうちの家族も平気で子猫を殺す鬼畜だ。

田舎では、「子猫を川に捨てる」という行為が当然のようになんの罪悪感もなく行われ、俺が東京に住んでいた頃はゴミ袋の中に生きた子猫を発見した。(友人とゴミ袋をあさって拾ったが、弱っていて死亡。)


猫をかわいがる一方で、生まれた子猫を殺したり、要らなくなったペットを山に捨てたりする「冷酷さ」を人間と言うものは持っている。今現在もそういう意識でいる人は作家でなくても大勢いる。

ただ、「罪悪感も感じることなく当然」ではなく、自分でも言い訳したいような被虐的な開示性を伴ってああいった文章を書いてしまうのが、作家の特殊なところだろう。


そういう点では、文章の威勢のよさの割には潔くない人だ、と思う。


しかし、猫に人間性を重ね合わせたような、「子猫の猫権」のようなものを殊更に唱える人にも違和感を覚える。

猫は猫だ。そして、人間というものは他の生き物を近代に至るまで思うように扱ってきた。そういったところも人間の一面だ。

俺自身はそういうのは嫌悪感を抱いてはいるが、いまさら小奇麗な「子猫も殺せない」ような「人間性」が至極当然のように語られると「ちょっとまった!人間ってそんなもんですかい?」とひねくれて思ってしまうのだ。


ペットが人間と同じようにかわいそうだと思われているのは一部の恵まれた先進国だけだ。

それを持って「子猫殺し」を擁護するわけではないが、今のような「この猫殺し!!」という大きい反応がどこか滑稽に思えてしまう。


えぼりさんの「悲しき熱帯 」にうなづきつつTB.