下の記事で山谷えり子議員の発言を茶化したのだが、この発言と「家事」について、前記事で参考にしたブログさんたちの間で真摯なやり取りが交わされていたので、なんだかバツが悪い気がして家事について書く。


俺は家事を軽視してはいない。


現在過去において「家事は自分のためにやるもの」>「やらなければならないが、労力と精神力を要する」という認識なので、それを誰かが代行してくれるとしたら喜んでやってもらいたいし、感謝もするだろう。


俺は15、6で家を出て収入も家事労働も実家に頼らなかったので、18くらいで大学に入って仕送りをしてもらいながら「家事が大変」という奴に会うと何を甘えているのだ、思っていた。

大学生の友人が週末ごとに実家に洗濯物を持っていき、母親の作ったおかずをタッパーにつめて持って帰ってくると聞いたときは、あきれると言うより腹が立ったものである。

現在は実家に居候しているが、洗濯物などは母ないし義姉にしてもらう気はサラサラない。義姉なんかは「何度も洗濯機を回すと水のムダだから」やってくれると言うのだが、8年家を離れて自分で洗濯していたので家族にやらせるというのがなんとなく気分が悪いのだ。


友人に一度も地元を出ずに現在ひきこもりをしているやつがいるが、そいつは洗濯・掃除・食事の準備すべてを母親に任せて、ひたすらネットやらゲームやらをやっている。俺が遊びに行ったとき母親が「食事を作ったのにすぐに食べにこない」などと言っているのに対し、「今食べたくないって言ってるのに作るのが悪いんだよう!」などと被害者ぶって文句を言っているのを見たときは、本当にこいつ大丈夫かと、震撼させられた。俺が親だったらお仕置きだべー。

彼の母親の彼への「介抱」的な家事はまさしく「献身」そのものだろう。しかし、それが報われていたり、家族によって感謝されているとは見ていて到底思えない。


それに、「家事を代わりに愛を持ってやってくれる家族」も誰もが持てるものではないし、愛なしで代価を払ってやってもらう必要のある場合も或る。それはSEXも同じだ。


下の格言をSEXに置き換えてみると、いかに山谷議員が自分の思い込みを勝手に定義しているのか分かるはずだ。


SEX、それは愛。

SEX、それは調和。

SEX、それは献身。

SEX、それは祈り。

確かに愛のあるSEXや家事は美しいと思うが、それを持ち得ない俺のような「愛の難民」はどうしたらよいと言うのか(笑


山谷議員の発言に、普通に生活していれば誰もがやらなければいけないことに愛だの調和だのつけて、「家族のためにガンバッテ主婦業も政治もがんばる私像」みたいなナルシシズムが透けて見えるために、「何を言っているのだこの人は」と蕁麻疹になったり寒気がしたりするのではないかと思う。


「うんこ」をなかなか覚えてくれないブログペット岡ピであるが、「ホラー」は一発で覚えた。

最近2文節で話すようになったので、横で「家事・・・ホラー・・・」などとつぶやかれたらすごく怖いな(笑