小さな頃虫を殺したことはないだろうか?

俺はある。

小さな命が自分の手でもてあそばれ、閉じていくさまに最初のうちは興奮しているものの、後になってどうにも気味の悪い残滓が残った。


今も俺は無意味に命を奪うのは生理的にイヤだ。

ねずみ以上の大きさの動物は殺したくもないし、それを行うときにどういうことが起きるかを想像することにも怖れを感じる。


しかし、ゲームの中では別だ。

どんな残虐行為をやっても、いくら銃を撃って動物は愚か人間を殺しても、それは「現実」ではない。

手ごたえがまったくない、画面上の行為だからだ。

血がいくら流れても、映画と同じで現実のものではない。

人がいくら死んでも、現実の人間ではない。

むしろ、ゲーム上での残虐行為は「こんな恐ろしいことをゲームでやっても、現実では決してしないであろうという揺るがない確信」の確認行為であるとすら思える。


グランドセフトオートというゲームがある。この中のシリーズの3が、唯一神奈川県の有害図書指定を受けた。

     ライリーとじいちゃん

上の画像はアメリカの新聞漫画「ブーンドックス」より、グランドセフトオートをやる孫と一緒にゲームをやりながら「現実ではうんと悪いことだ」と教える祖父。


この「GTA」シリーズのウリは「自由」だ。盗みも、人殺しも、それぞれのプレイヤーのやり方次第。

しかし、このゲームには有害図書指定前からCEROの「18歳以上推奨」がついている。

はじめから、現実と想像上のものを判別がつけるとされる、大人向けのものなのだ。


もっとも、俺は上の漫画のように子供が現実でやってはいけないことを学ぶツールに、ゲームを使ってもいいと思っている。

殺人も犯罪も、ゲームの中で起こったほうが、現実で起こるよりはずっとずっとマシだ。


本当に怖いのは「ゲームの中でしか起こってはいけないこと」を現実で起こしてもいいと思えてしまう、現実の中で罪悪感を覚えることのなかった子供が大人になってしまったケースだろう。


現在の現実の偉い人間にはそんな壊れたやつらが多数見られる。ゲームよりそっちのほうが悪影響じゃないのだろうか?偉い人になれば自分の信条のために自国民を戦場に送ってそこは戦場じゃないと詭弁を言ったり、貧乏人同士を殺し合わせて自分たちはいけしゃあしゃあと正義の味方面していられるのだ。こんな幸せな大人子供は、子供が真似をしたくなるんじゃないか?

規制しろと言うのなら、隣国をナチスドイツと名指ししておきながら自らは「戦争も辞さない(自国民の犠牲は厭わない)」とナチスドイツ並みのファッショ振りを発揮した男の、模倣犯を出した強姦小説を真っ先に規制すべきではないのか。


ゲームを規制しろと言っている政治家の多数はそれがどういうゲームなのかを知らない。

犯罪を犯した子供とゲームとの関係も立証できない。

自分の想像の中の「ゲームの残虐表現のせいで犯罪を犯したくなる子供」というファンタジーのために、

現実の大人の娯楽を規制しようと言う、

現実とゲームの区別がつかない大人なのだ。


この記事はkitanoのアレさんのゲームを有害視する松沢知事にトラックバックを送ろう に賛同し、松沢知事のブログにTBを送っています。

ゲーム脳については別のブログにおいてずいぶん前からガーガーがなりたててきたのだが、今は次世代機の明るい話題にゲーム脳で水を差したくないので、こちらで書いてみる。