下の「日本人の宗教観」で月影のシモン さんから、以下の記事を紹介いただいた。

 

靖国合祀と信教の自由

 

 合祀とは、国のために忠誠をつくして死んだかどうかを国家が判断し、基準に合った戦死者だけを靖国神社に神として祀る行為であるが、そこには本人や遺族の意思はまったく関与できない。本人や遺族が神として祀ってほしくない、あるいはすでに神として祀られている自分の家族である死者を祀らないようにしてほしいと願っても、その願いは聞き届けられない。拒否される。国家が死者を支配して、勝手に神にしてしまう。

 

 この自衛隊合祀拒否訴訟で中谷さんが問いつづけたのは、遺族の同意なしに、国家が思うままに死者を支配して神にしてしまう非人間的な行為であったが、さらに象徴的であったのは、合祀の対象が自衛官であったことだ。58年前に終わったあの戦争の戦死者だけでなく、自衛官も殉職すると遺族の意向を無視して靖国神社や護国神社に神として祭られてしまう。前掲の中曽根発言にあるとおり、国民の望まない戦争で自衛官が戦死をしても、国が神様として祀ってやる。だから安心して戦場に赴き、死んでこい、という装置として機能させようという、国民を戦争に参加させたい側の意思が明瞭に見えてくる事件であった。

 

「天皇の名の下、軍部に利用されて死んだ」と「一般の兵士」を様式化してしまうことにおごりがあることは俺も気がついていたのだが、つい簡単なのでやってしまいがちだった。

 

だが、こちらの記事も読んで「天皇制に反対し、共産主義を志すも徴兵され、死んでいった」兵士もいることに心が痛んだ。

 

「誰が死者を追悼するのか?・・・靖国神社を巡って」

 

 戦争に動員された大多数は、徴兵されてしゃーないから戦争行った、という人なのではないのか。
 俺の大叔父の死が個別的だったように、個別の兵士の死は、悉く個別的である。すべての戦死者が個人的な背景を背負っている。その個人が、国家の事情で戦争に動員され、これまた個別の背景を背負った「敵」によって倒される。不合理な、全く納得できない死。当然、遺族も納得できない。
 ここで国家は靖国神社という装置を発明したのである。「戦死者は靖国神社へ行って神様になる」「みんな天皇陛下万歳!といって死んでいった」という物語が作られ、個別の兵士の死を奉る事を「国家行事」として位置付ける。そうすることで国家は戦争遺族の納得を取りつけようとするのである。(他国も同様の装置を持っている事は前提ね)

 俺はこのやり方が、実に薄汚いと思うのだ。誰しも、自分の家族や友人が「犬死した」などと思いたくはない。なにがしかの「意味のある死」を死んだ、と考えたい。そこで靖国神社を介して、「国のため」「天皇のため」といった「死の意味」を配布し、付与する。「死の意味」の、国家への回収である。そして兵士の死の意味は均質化され、一律で仲良く「名誉の戦死」で「英霊」とされる。で、「犬死だった」というような言説は排除されていき、戦死者は「国家のモノ」であるかのように取り扱われるのだ。


俺のひいじいさんにあたる人は軍人だったと聞くし、軍学校を出て戦死した(生きていれば戦犯で巣鴨に入れられていたかもしれない)大伯父二人には、こういった「共産主義を志しながら、国家のためという大号令でしょーもなく死んだ」人々と違って、戦死は本意だったかもしれない。

 

しかし、自分たちがそうだからと言って、他人に押し付ける「宗教」など、掲げられた「日本の宗教の自由」の前にできるわけがないだろう。

「日本人(みんな)の宗教観がこうだから認知されてしかるべき」→「死んでしまったら神にしてやるから、日本での宗教の少数派は黙って合祀されろ」はといった「道民」氏が掲げるような思い込みの押し付けには、大多数に含まれる俺のような側からも反発を覚える。

 

 そういった点からも、自らの祖父は「戦争でうまい思いをした」ものであるに関わらず、他人の死を「国家のために」と定義づけて、そのうえで「犠牲になった人たち」のことを「思う」ふりをして「泣いて見せる」小泉の参拝は、反吐が出るほど欺瞞に満ち溢れている。

 

参考リンク

菅直人の今日の一言

軽率な行動Date: 2005-04-17 (Sun)

 

中国の反日デモ。中国政府として鎮静化を図るべき。それにしても戦後いろいろな時期はあったが小泉内閣以前は対日感情も改善してきていた。北朝鮮問題、そして国連安全保障理事国問題など近隣の国の理解が特に必要なこの時期、日中の首脳会談すら出来ない状態がつづいている。小泉外交がアメリカ一辺倒でアジアを軽視したつけ。ドイツは近隣諸国の信頼を回復する事によって今日のEUの主要国となった。  私は1月の予算委員会で靖国神社は日本の伝統的神道とは異質な存在で、どちらかといえば当時の欧米の国家主義の影響を受けて明治2年に設立されたものという、哲学者の梅原猛さんの考えを紹介した。伝統的神道では滅ぼした相手の魂を慰霊するという考えで、味方だけを祭るというのは異質。4年前、小泉総理が目の前の総裁選のことだけを考えて靖国参拝を約束したとしたら余りにも外交戦略を考えない軽率な行動。