「おじいちゃんっこの被害者意識共有。」 において「道民」氏が「 A級戦犯合祀はあくまで日本の宗教観によるものです。いわゆる日本の宗教観は『死人に鞭打つ文化』ではないのです。」とコメントし、日本人の宗教観とはなんぞや?という水掛け論になっていたところ、フォルトゥーナさんがすばらしいコメントを残してくれた。(必見。)
一部抜粋させてもらうと、
日本の宗教観というのは、恨みを残して死んだ人が、生者に祟りをなすという考え方が根底にあって、祟りを防ぐために、死者というのは誰であれきちんと弔いをしなければならないという訳です。だから、例えば処刑された罪人はもとより、牛馬や虫に至るまで、弔いをする塚なんかがあるわけですね。
だけど、死者そのものを神として神社に祀っているのは、その中でも神格化するに足ると思われた人だけです。歴史上の人物でも神として祀られている人はそう多くないです。コレという明確な境界線があるわけじゃありませんが、強い恨みを抱いているに違いないと恐れられた人、つまり、無実にも関わらず、陥れられて死んだ人(菅原道真)や、もしくは惜しまれて死んだ人(源義経)などが神様になっている場合が多いです。
それから、しっかり弔いをしなくてはならないのは、味方ではなくて敵なんです。ゆえに、祟りを恐れられて神格化され人たというのは、だいたい政治的な生々しさがなくなってから、神格化されています。例えば、菅原道真が大宰府で憤死してから、北野天満宮の祭神になるまでが40年。道真を陥れた人々がみな死んでからのことです。さらに天皇が参拝するまでは、100年ほどかかっています。
つまり、こうやって見ていくと、A級戦犯合祀の矛盾が見えてきますよね。
A級戦犯は敵ではなくて、味方の死者。さらに、政治的にホットなうちに、外交問題にまで発展させて無理矢理合祀。さらに靖国神社は祭神は誰彼なく溶け合っているので、合祀後は外すことができないなんて言ってますよね。
靖国が一般の兵士を祀ることに対して異論はありませんが、A級戦犯合祀や、それを取り巻く大陸の被害者を軽視する視点には矛盾があるよ、といいたいだけです。
あげてくださった例などは本当に参考になるので、コメント欄 を見てもらうとして、
「人生アウト」さんからのコメントも引用させていただく。
国のために戦って死んだわけでもないA級戦犯を、本当に追悼すべき「国のために戦って死んだ人々」とごっちゃにすることが、「日本の宗教観」なのでしょうか?
自分の家族を殺した人間と、自分の家族を、ごっちゃにして弔うことが?
俺が「A級戦犯に共感する人」と呼んだのは、こういった「戦って死んだわけでもないA級戦犯と、国のために戦って死んだ人々」をごっちゃにして正当化し、参拝に反対する俺のような人間に「靖国を愚弄する」かのごとくレッテル貼りを続ける人間たちのことだ。
下のコメント欄 や ここ や ここ にも書かせてもらったが、自分の祖父方の兄弟に2人の戦死者を出し、母方の祖母は戦争未亡人で、母は戦死した人の弟の子供(祖母は夫が戦死したのちに、夫の弟と結婚させられている)で、戦争によって辛酸をなめさせられた層であると思う。
よって、俺は祖父母が戦死者を悼む気持ちに水を差すつもりはないし、戦後の苦しい中「昭和天皇陛下は戦争に反対されていた」と昭和天皇に対する尊敬を励みにしていたことにも異論を挟む気にはなれない。
ただ、そういった自国の遺族たちを騙すかのように、A級戦犯のことを言わずに「首相の靖国参拝に反対している人々は戦死者を愚弄している」かのような論調に誘導して、遺族の気持ちを政治利用すようとする人間の汚さ・浅ましさには、反吐が出る思いがする。