「ABCすら左に見える」という記事を書いた後も、日本のニュース報道と、各国のそれを比べていたところ、明確に違う点が見えてきました。
例えばインタビュー映像。一般人のインタビューですと、日本のニュース番組の扱いは、「CMに入る前に強調したいと思われるコメント部分を抜き出して流し、CM後さらにテロップが入り、アナウンサーがコメントを述べた後、さらに強調したい部分を引用」したりして、一人の人間の同じ映像、同じコメントが繰り返し使われたります。他国のニュース報道の場合、一般人のインタビューとして同じ映像が使われるものは少なく、複数の人間のコメントを、抜き出さずに一度に続けて流しています。同じ映像を何度も見るということはほとんどありません。
拉致被害者家族が政府批判をしたときにバッシングにあったときにもこの「繰り返しの映像」が反発心を煽った、とも言われています。前後の首相に対する質問等の映像を飛ばして、政府を厳しく批判している部分だけが繰り返して流れていました。これで、「政府は何をしたのか」という家族の切実なる疑問に思いあたることもなく、「こんなに政府を批判するなんて」と短絡的に思わされてしまったのかもしれません。
これが「北朝鮮」など敵愾心を煽りたいと思われる国に対する報道になると、さらに演出が加えられています。金正日の発言などは、おどろおどろしいBGMとともに、どすの利いたナレーションが加えられます。これは本当に日本に特有の方法と言っていいと思います。例えば新華社通信などのニュース映像を見ても、小泉首相が靖国参拝・・・といったニュースを流すときでさえ、BGMなどもありえないし、淡淡とアナウンサーが発言内容を言い、日本の首相の映像を流すときも通訳の人がどすの利いた声を「演じ」ることもないです。
何故日本の報道番組がバラエティ化しているのか、いつの頃からなのかは自分には判断のつきようがないのですが、こういった「切り取られ繰り返される映像とコメント」「BGM」「演技するナレーション」といった演出によって、「報道」より、「視聴者にこう思わせたい」部分が表に出ていると思います。
見る側はそれを受け止め、怒ったり同情したりしていればいいのですから、「報道内容」によって何かを判断するということをどんどん失くしていく。
こういった「演出された」ものを日々「報道」として受け入れている日本人の感覚が急速に扇情的になっているのも道理な気がします。
例えばインタビュー映像。一般人のインタビューですと、日本のニュース番組の扱いは、「CMに入る前に強調したいと思われるコメント部分を抜き出して流し、CM後さらにテロップが入り、アナウンサーがコメントを述べた後、さらに強調したい部分を引用」したりして、一人の人間の同じ映像、同じコメントが繰り返し使われたります。他国のニュース報道の場合、一般人のインタビューとして同じ映像が使われるものは少なく、複数の人間のコメントを、抜き出さずに一度に続けて流しています。同じ映像を何度も見るということはほとんどありません。
拉致被害者家族が政府批判をしたときにバッシングにあったときにもこの「繰り返しの映像」が反発心を煽った、とも言われています。前後の首相に対する質問等の映像を飛ばして、政府を厳しく批判している部分だけが繰り返して流れていました。これで、「政府は何をしたのか」という家族の切実なる疑問に思いあたることもなく、「こんなに政府を批判するなんて」と短絡的に思わされてしまったのかもしれません。
これが「北朝鮮」など敵愾心を煽りたいと思われる国に対する報道になると、さらに演出が加えられています。金正日の発言などは、おどろおどろしいBGMとともに、どすの利いたナレーションが加えられます。これは本当に日本に特有の方法と言っていいと思います。例えば新華社通信などのニュース映像を見ても、小泉首相が靖国参拝・・・といったニュースを流すときでさえ、BGMなどもありえないし、淡淡とアナウンサーが発言内容を言い、日本の首相の映像を流すときも通訳の人がどすの利いた声を「演じ」ることもないです。
何故日本の報道番組がバラエティ化しているのか、いつの頃からなのかは自分には判断のつきようがないのですが、こういった「切り取られ繰り返される映像とコメント」「BGM」「演技するナレーション」といった演出によって、「報道」より、「視聴者にこう思わせたい」部分が表に出ていると思います。
見る側はそれを受け止め、怒ったり同情したりしていればいいのですから、「報道内容」によって何かを判断するということをどんどん失くしていく。
こういった「演出された」ものを日々「報道」として受け入れている日本人の感覚が急速に扇情的になっているのも道理な気がします。