故ナンシー関さんを勝手に師匠と仰ぐ俺にとって、彼女が生前気にかけていた「歌唱力の供給過多」と「癒しの押し付け」がまかり通っているようで気に障る。ナンシーさん亡き後、まかり通り放題だ。誰も文句を言う人がいないし、言えば「この根性悪が」と一蹴されて終わりだ。だが、「ナンシー関の遺志を継ぐもの(勝手に)」として、見逃しておけないので言おう。
「ジュピター」という曲があるが、俺はこれを初めて聞いた時「きーてきてあたしーンち(威風堂々)」とか「どーんなーにこんなんでーくーじーけーそおでーもー(原曲忘れた)」クラスの替え歌だと思った。
車に乗ってるとき、ラジオで流れることが多かったのだが、その中でDJたちがこの曲を大絶賛していた。
いわく、
「元の曲が好きだが、その曲にすばらしい詩がついて、感動的。」
「歌唱力があって、本当に涙が出る」
??
俺も元の曲は聴いていた。
DJの自慢には「ワタシは昔からクラシックに詳しくて」とか「歌い手は声学科で本格的に歌唱力があり」とか言うのがオマケにつくのだが、
詳しい人が、あの荘厳な曲に「エーヴィーデ~~~アィリッスントゥーマイハート ひとりじゃ~な~い~」じゃ萎えないのか!
全部通してありきたりな「感動語句」が並んでいて、どこのどのへんがすばらしい詩なのだ、と問いたい。とにかく出だしで一気に「ハア?」と思うので、後からどんなに曲が盛り上がろうが、ものすごい歌唱力でまくし立てられようが、「分かったから替え歌はやめろ」と思ってしまう。
その後もテレビやなんかで「癒し」「感動」とかいうものといっしょに語られ、紹介されていたのだが、どうにもこうにも「あなたはこの歌で感動しないんですか!」と押し付けられているようで不快だった。どうも「いい話」を演出しすぎなのだ。たとえこの歌で大多数の人が感動して涙を流そうが、「すばらしい曲に、すばらしい詩」という押し付けは俺にとっては余計だ。
その後、そんなムーブメントも飽きたのか、新曲が出たからなのか「ジュピター」を聞かなくなってほっとしていたら、CMでその不快な「感動、癒し」部分が強調されて流れていた。いい加減にしろ。
「ジュピター」という曲があるが、俺はこれを初めて聞いた時「きーてきてあたしーンち(威風堂々)」とか「どーんなーにこんなんでーくーじーけーそおでーもー(原曲忘れた)」クラスの替え歌だと思った。
車に乗ってるとき、ラジオで流れることが多かったのだが、その中でDJたちがこの曲を大絶賛していた。
いわく、
「元の曲が好きだが、その曲にすばらしい詩がついて、感動的。」
「歌唱力があって、本当に涙が出る」
??
俺も元の曲は聴いていた。
DJの自慢には「ワタシは昔からクラシックに詳しくて」とか「歌い手は声学科で本格的に歌唱力があり」とか言うのがオマケにつくのだが、
詳しい人が、あの荘厳な曲に「エーヴィーデ~~~アィリッスントゥーマイハート ひとりじゃ~な~い~」じゃ萎えないのか!
全部通してありきたりな「感動語句」が並んでいて、どこのどのへんがすばらしい詩なのだ、と問いたい。とにかく出だしで一気に「ハア?」と思うので、後からどんなに曲が盛り上がろうが、ものすごい歌唱力でまくし立てられようが、「分かったから替え歌はやめろ」と思ってしまう。
その後もテレビやなんかで「癒し」「感動」とかいうものといっしょに語られ、紹介されていたのだが、どうにもこうにも「あなたはこの歌で感動しないんですか!」と押し付けられているようで不快だった。どうも「いい話」を演出しすぎなのだ。たとえこの歌で大多数の人が感動して涙を流そうが、「すばらしい曲に、すばらしい詩」という押し付けは俺にとっては余計だ。
その後、そんなムーブメントも飽きたのか、新曲が出たからなのか「ジュピター」を聞かなくなってほっとしていたら、CMでその不快な「感動、癒し」部分が強調されて流れていた。いい加減にしろ。