俺が反米になった原点を思い返すと、大きく分けて二点ある。

 

ひとつは「特攻崩れ」のじいちゃんに、いかに先の戦争で米軍が汚かったか、戦後の国内で米兵が傍若無人に振舞ったかを刷り込みされたこと。そのほか、天皇が立派で、陸軍が愚かだったかもいっしょに刷り込みされた。(じいちゃんは海軍兵学校出身)

親父はばあちゃんが苦労して出した四大出のリベラルだったし、兄は親父に似てそういう「民族的悲劇」に燃えるたちではないので、そういう話を喜んで聞いた俺をじいちゃんは純粋培養したと言ってもいい。

 

もうひとつは、中学のときに沖縄から転校してきたあかねちゃんに、彼女のばあちゃんが米軍のジープに轢かれて死亡し、「轢いた米兵はなんの罪にも問われなかった」といったような「沖縄駐留米軍の傍若無人振り」を聞いたこと。彼女に気があった俺はそれは熱心に彼女の怒りを聞き入り、「じいちゃんから聞いた戦後の状況と、沖縄は変わっていない」ということを認識させられた。

 

とまあ、斯様に「民族的被害者意識」は共有されやすいものである、と俺は実体験をもって確信する。

 

日本人の大半は「A級戦犯」になったような人間から戦争に駆り出され、戦死したり、戦後の苦労を負ったような人間の子孫であると思うが、どういうわけか最近、「A級戦犯」に被害者意識を共有するような若者や老人たちがいて、「小泉の靖国参拝」に賛美を送ったりする。

 

「戦争のお題目」に利用された昭和天皇陛下も、「A級戦犯」の合祀には不快感を示し、合祀後は参拝をしなかったという経緯がある。(今上天皇にいたっては、いまだに参拝をされないでいる。)

 

「不敬」であるのは誰か? (Dead Letter Blog)

1966年引揚援護局はA級戦犯の「祭神票」を靖国神社に送り付けた。しかしこの当時の宮司、筑波藤麿は、天皇家や宮内庁内の空気を知っていたが為にそれに配慮し合祀を差し止めた。事態が急変したのは、その筑波宮司が急逝し、後任の宮司に東京裁判否定派の松平永芳が就いてからだった。1978年松平は宮司預かりとなっていたA級戦犯合祀を行うことを決意し、合祀者名簿を天皇のもとへ持って行く。それを受け取った徳川侍従次長は、天皇の意向に基づき相当の憂慮を表明したが、松平はそれを無視し、独断で合祀を強行してしまう。結果、昭和天皇はこれに反発し、以降靖国参拝は取り止めとなってしまい、今に至るというわけだ。

 

「天皇陛下万歳」といって死んだとされる家族を思い、戦争を起こした軍部を憎むのなら、なぜ戦争を後悔しつづけた昭和天皇の意向に背く小泉の参拝を賞賛するのか、遺族会。

票田としていいように使われ、コケにされるのもいい加減にしろ、と言いたい。

まあ、遺族会の上部には、政治家と癒着して遺族会員の票を使い、いい目を見ているものもいるのだろう。(あら遺族会役員の中には自民党議員の名前が臆面もなくづらづら連なってますなあ)

 

俺だったら、特攻機を送る空港を軍に供与し、旧軍に表彰された男の孫から参拝をされることなど、「ふざけるのもいい加減にしろ」と拒否するが。

 

A級戦犯の子孫である政治家に肩入れし、「自らがA級戦犯になった」ような妄想で固められている、自らの先祖には思いをはせることのない人間こそ、日本人として、戦死者の遺族・子孫としての誇りが欠けていると言えるだろう。