Japanese-Hawaiian | dowild<ドワイルド>blog

Japanese-Hawaiian

Aloha!


すっかり風邪を引いてしまい、ここ数日ヘロヘロ状態のdowild.mです。


なので今日はちょっとトーンを落として、ジックリとハワイの日系移民について触れてみたいと思う。


ハワイを訪れると日本人名が多くの店や企業名に使われているのを目にするよね。


日本人にとって非常に馴染み深い”外国”である。


その実状は過半数を占める人種が存在しない、まさしく「人種のるつぼ」。


現在ハワイ州人口の17%が日系人だそうだ。
(白人24%、フィリピン系14%、先住ハワイ人6.6%!)


しかも60歳以上の高齢者に至っては、38%が日系人によって占められている。


日本人移民の歴史は1868年(明治元年)まで遡る。


当時ハワイ政府は移住民局を設置し、労働力不足を解決するため外国からの労働力を導入しようとしていた。


それまでの外国人労働力として受け入れていた中国人に対しては、アメリカで中国人排斥運動が起きていたこともあり、その代わりとして日本人移民の導入を計画したという。


日本人集団移民第1号となる153人は11日間の渡航の末ホノルルに到着すると、「耕地」と呼ばれる砂糖キビ・プランテーションに就労することになるのだが、現実はそんなに甘くはなかった。


そのプランテーションの労働は、朝6時から夕方5時まで、休憩は昼食時のわずか30分の過酷な11時間労働であった。


炎天下の耕作地は辛く、水すら満足に飲めなかったそうだ。


喉が渇くと水の入った桶を担いだウォーターボーイを大声で呼び、ミルクの空き缶で作られた柄杓で水を一杯だけ飲むことができたのだ。


当時のサトウキビ畑での作業歌、ホレホレ節がその過酷な労働を物語っている。
「はわい はわいと 夢見て来たが 流す涙も キビの中」


その日給は男性が1ドル、女性が75セントときわめて低いものであったそうだ。


このように最初の移民はトラブルが続き、その対策に苦慮した明治政府は海外への移民については慎重な態度をとるようになっていった。


しかし、ハワイ側から見ると日本人移民に対する評価はけっして下がってはおらず、むしろますます日本人移民を必要とするように感じていた。


その事が1885年に労働条件などを定めた約定書「官約移民」に繋がっていく。


その結果、官約移民が廃止される1894年までの約10年間に29,000人の日本人移民がハワイに渡ることになり、ハワイの日本人は急増の一途をたどっていった。


約2割が女性で、移民の出身県はハワイへの移民を積極的に奨励していた広島、山口、熊本、福岡など西日本の各県が多数を占めていた。


官約移民の初期の給料は食費などを合わせて月額15ドルで当時としてはけっして悪い条件ではなく、また日本でのインフレの進行に伴って、契約期間が満了しても日本へ帰国する者が減少していくようになっていった。


1876年に米国・ハワイ互恵条約締結が結ばれ、ハワイからの農産物は無関税でアメリカに輸出できる、その見返りとしてオアフ島の真珠湾のアメリカの軍事利用を認るというもの。


太平洋におけるハワイの軍事的重要性に気付いたアメリカは、ハワイを軍事基地にする事を実現したんだ。


1893年にはハワイ革命により、カメハメハ1世から始まったハワイ王朝は約100年の歴史の幕を下ろすことになる。


そしてアメリカは、このクーデターを待っていたかのように5年後の1898年ハワイを属領にしてしまう。


その過程により、官約移民は中止され、移民事業は政府の手から離れた。


代わって移民事業会社が続々と設立され、移民達は官約移民時代よりも劣悪な労働を強いられるようになる。


その結果、日系移民の中に酒・賭博・麻薬・売春がはびこるようになっていく。


こういった弊害から1900年に民約移民が中止され、渡航費用が自己負担で就職、居住も自己責任の自由移民時代となった。


民約移民時代には約35,000人がハワイに移住し、その結果1900年のハワイ総人口に占める日系人は40%ほどになっていたそうだ。


1904年の日露戦争後、日本は戦後の不況で失業者の多くが北米への出稼ぎを目指すようになる。


低賃金で真面目に働く日本人のために白人労働者の失業を招いているという理由から、1908年日米紳士協約によって新規に日本人移民がアメリカ合衆国へ入国することが禁止されることになる。


しかし、新規移民の制限と例外的に花嫁呼び寄せ制が認められた結果、日系人の間に定住意識が生まれ、日系社会が安定期に向かっていくことになった。


呼び寄せにより多くの花嫁が移住してきたことにより、日系人の男女比率が均衡するようになり、ハワイにおける日系人の社会的地位を高める事になったんだ。


そうした中でハワイに定着化しようとしていた日系移民たちは、プランテーションにおける労働条件の改善に目を向けるようになり、労働争議を起こし、一定の労働条件の改善や賃金の引き上げを実現することができた。


しかし、同時に日系移民が労働争議で見せた団結力や統率力を見て、白人社会は強い警戒感も持つようになり、1924年の移民法の改正-日系移民の全面禁止につながっていくことになる。


日本生まれの日系移民、つまり移民一世はアメリカの国籍を取得できない、とも。


こうした流れから、親の移民一世とその子である移民二世の間では日本に対する意識に大きな隔たりが生じ、アメリカの高等教育を受けた移民二世の多くは日本国籍を捨ててアメリカ国籍を選択した。


そんな中、1941年太平洋戦争が勃発する。


連邦政府は日米開戦後、日系人を強制収容し辺境の地に設営されたいくつかのキャンプに隔離するが、ハワイは例外的に日系人の中でも指導的な立場の少数の者が収容されただけで、大多数の日系人はそのままの生活を許した。


ところが日本軍の真珠湾攻撃の後、日系人のうち各団体の責任者や日本語新聞関係者など、日系社会の指導的立場の者たち約2000人が逮捕拘束され、そのうち700人ほどがアメリカ本土の収容所に送られてしまう。


日系一世の中でも指導的な立場にあり、皇民思想を堅持していた保守派の人たちが日系社会から隔離された事により、それまで抑え込まれていた日系二世のアメリカ母国意識、忠誠意識が急速に高まっていくことになっていった。


この流れにより、日系現役兵士による日系現役兵士として第100大隊と第442連隊という部隊が作られ、彼らは精鋭部隊でヨーロッパ戦線にてアメリカ人以上の活躍をしたそうだ。


1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏し、太平洋戦争は終結した。


アメリカ本土では日系人の抑留が解除され、ハワイから本土に強制収容されていた人たちも帰還を許される。


トルーマン大統領は日系部隊に向け「諸君は敵と戦っただけでなく、差別とも戦い、そして勝ったのだ」と歓迎演説で述べ、感謝状を贈った。


日系兵士たちは血と汗と涙との引き替えで、国家に対するアメリカ市民としての忠誠心を証明したのだ。


ヨーロッパ系アメリカ人に東洋人、特に日本人に対する差別意識があったからこそ、日系人が払わなければならなかった犠牲が必要であったのであろう。


戦中、戦後とハワイの日系市民にとっては経済的にも恵まれ、日系家庭の多くが基地や軍需産業で働くことにより、開戦前の数倍~10倍以上もの収入を得ることができた。


また、ハワイに戻った日系兵士達には「GI権利法」によって政府からさまざまな経済的支援を得て、大学に通ったりビジネスを始めたりする事ができた。


かつて日系人社会の指導者だった一世が一線から退き、その子供の二世たちが指導的役割を持つようになる、世代交代である。


そして完全にアメリカナイズされた三世たちが影響力を持ちはじめ、日系市民社会が精神的にも文化的にもアメリカ社会への同化を果たす事になる。


1949年に日本人帰化法によって、それまでアメリカ国籍を与えられていなかった日系一世たちにも、ようやく国籍が与えられることになった。


そして1959年ハワイはアメリカ合衆国の50番目の州に。


1967年に人種差別を撤廃した新移民法成立が成立し、アメリカ移民での東洋人差別がなくなり平等の扱いとなった。


1972年になると観光収入が軍事、砂糖、パイナップルを抜き初めて首位に躍進し、日本人のハワイ観光が急増することになる。



ざっと駆け足でハワイの日系移民の歴史を振り返ってみたのだが、それは生易しいものじゃない苦労と努力、そして人種差別との戦いであった。


人種差別に慣れていない日本人が遠い外国で受けた差別、辛かったに違いない。


それに打ち勝ったドワイルドな日系人たちが今もハワイで25万人以上暮らしている。


彼らのお陰で俺たち日本人はハワイを快適に過ごせるんじゃないかな?


その辛い日系人の歴史を踏まえた上で、ハワイをより愛してみるのが大切だと思う。


以前乗った白人タクシードライバーは
「ハワイは私達白人よりも、あなた達日本人に優しい島なんだ。」
と少し寂しそうに言っていた。


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