NODAMAP 南へ



2011.2.26 18:30開場、19:00開演





「面白い」と一言に言っても、色んな面白さがあると思う。
笑い、っていうのもひっくるめて。

蒼井優の演技で、私はたくさん笑った。
可愛い、から生まれる笑い。
愛くるしい、から、笑う。
小さな子犬がよちよち歩いて、こてん、と、ころけてしまった瞬間の笑い。
彼女は、女の子の可愛さを存分に振りまいた、無邪気な可愛さがあった。
声を出して笑った。
とにかく彼女が愛らしかった。
その笑いは、まるまる幸福だった。
蒼井さんがすきだと、改めて実感した。



話は、新聞にも書いてあった通り、複雑かつ難解、なのかもしれない。
観終わってから数分は腰が抜けて動けなかった。
情報量の多さ。記憶の整理。わけのわからん感動。切なさ。
泣きそうになったり、思い出し笑いしそうになったり、目の前の二時間十分ほどの時間時間が、音と一緒に消えない。
四日程経った今でも消えない。
きっと、一生ふとした時に思い出す。
ホテルに帰った後、一人の部屋で買った脚本に実際の光景を継ぎ足していって、スケッチブックに記憶の断片をメモして、興奮してなかなか、寝れなかった。

色んな意味にとらえてよい幸せ。
あれは、きっと、ああだったのだろうか、と、想像できる幸せ。
野田さんは、どれも間違いではないよ、と言ってくださる予感がする。
答えが決まっているものは、安心するけどつまらない。
自分で導きだす、その作業がたまらなくすきだ。
想像の世界。こじつけの、嘘かもしれないロジックを、真実と仮定して繋げていく。
出た答えが間違っていたとしても、自分にとって意味のあるものなら問題はない。
問題、という言葉自体、質問か、プロブレムか、はっきりしない言葉なんだから、何も怖くない。
とりわけ、作者がそれを許しているなら、作業は妨害されない。
延々進む。


毎日、あの瞬間をもう一度頭の中で再生して、意味を探る。
もーたまらんな。
違う違うと否定して、結局また戻ってきたり。
幸せだ。
いつか消化できたら、自分が得た意味でなにか作品を作ってみたい。



妻夫木さんの演技の自然さ!
舞台の発声に何の違和感も感じなかった。
客の共感を呼んどいて、突き放す。
蒼井さんは嘘をつく女、としての予備知識があったけど、妻夫木さんに関してはゼロの状態で観たから、まんまと突き放された。
わたしたちの仲間じゃなかったの!? みたいな。
優しげな役が、似合う。殺す言うとったけども。
悪人がみてみたくなった。おもろいのかな。
妻夫木さんも可愛らしかった。蒼井さんのは女の子の可愛さ、妻夫木さんは男性としての、なんだろう、男性独特の可愛さみたいな。みたいな。


でもやっぱり、一番びっくりしたのは、野田秀樹。
初・野田秀樹だったもんなあ。
爆門学問で野田秀樹の回観て、すげーおもしろくて、多分あれ、十回以上繰り返しみてんな。
念願の、野田秀樹。
友達に説明するときは、蒼井優がでるんだよー、ブッキーがでるんだよーって言って、わーすげーなーを貰ってた訳なんだけど、個人的には野田秀樹演劇だよ、っつって、わーすげーなーを貰いたかった。
二年かな。爆門学問でブラウン管越しに出会ってから。
半神の冒頭だけをちろっと観させてもらって、あ、だめだ、って思ったのを覚えてる。
チンケなうっすい画面越しなのに、背筋がびぃんなって、心臓辺りが震えて、なんか、どうしたら良いのかわかんなくなった。
で、観るのをやめた。怖くなって、やめた。
今回、生。
そら、腰抜けるわ。

天才はウンパーセントのなんとかと、99パーセントの努力だとかなんとか、アインシュタインは言いましたけども、演劇とか芸術とかにおいては、最低でも四割は才能だと思う。
野田秀樹。
ジャンルっつーものが、色々種類をこさえてたくさん転がってる中、その中のホラーでもアクションでも恋愛でも人情でも喜劇でも悲劇でもなく、
野田秀樹。
そのまんま。彼が、ジャンル。彼しか内在していない、ジャンル。
その格好良さね。

独特さ。
アイデンティティーだとかなんとかおっしゃいますけど、人間そのものの個体は、誰とも違う。
自分って何? っつっても、自分は自分なんだよ。
てめえと一緒のDNAのやついるか? いねえだろ?っていう。
考えてる事も、他人と被ってる。んなわけない。お前が被ってるって思ってるだけで、完璧には一緒になはずがない。無理だよ、それこそ奢りだ。
オリジナルはコピーされても、作者の指紋の凹凸までは被らねえだろ、っていう。
言葉を完璧にパクられたって、それより良いものを作れば良い。作れるのは作者だけだ。
普通ってなんだ?
お前の普通は自分なはずだろ。
周りが全員異常者なだけで、だから信じんのも自分のはずだ。
参考にする、なら分かる。でも、どうして他人を信じる必要があるのか。
どうして自分を殺す必要があるのか。
野田秀樹は、野田秀樹だ。
自分も、自分なはずだ。
あの格好良さを見習うべきだなぁ。


野田秀樹が最初舞台出てきたとき、分からなかった。
ただ、おもしろい人だ、とだけ、思った。
十分ぐらいして、ようやく、彼が野田秀樹だと気付いた。
すげーな、野田さん。
おもしろい、野田さん。

わたしの想像では、もっと、なんだろう、野田秀樹はもうちょっと温度の低い人間だった。
台本を忠実に、そこから面白さを編み出していく人だと思っていた。なんとなく。
でも、違った、気がする。
野田秀樹は、熱かった。
すごく俗っぽい言い方をすれば、笑いをとりにいっていたような気がする。
演劇的に自然な形で。
もちろん、皆、げらげらと笑った。
面白かったもの。

声の、彼の声の質。
多様な声の質。
半神で観た、バカボンの声。の、切なさ。
すべてを吸収して、それに、やっぱり彼自身を挿れる。
彼に、夢中になった。
俗、に、陽をいれてるよな。
蜷川幸雄さんが、「演劇は、たかが芸能でいい」っておっしゃってたけど、その通りだ、と、言葉の意味を自分なりに理解した。
おもしろい。笑う。
演劇は、その行為のためでもある。
ただ泣く、悲しむのだったら、つらい。私は観に行かない。
野田秀樹は、面白い。
高尚なものを、突き落とす、面白さ。
それは、彼本人でもあると思う。
高尚さを、突き落とす。
だって、社長が歌ったら、義務的にすごいですねと愛想笑いしなきゃいけないじゃん。
それを、彼は、本当は社長なのに、自分を社員かそれ以下に投げて、歌う。
そこで起きた感動は、義務じゃない。本物だ。
彼は、すごい。
自分のボキャブラリーの貧困さが悔しい。
彼は、素晴らしい。
尊敬の念しか起きない。


戯曲を読んだだけじゃ笑えない。
テキストはただテキストでしかなくて、読んだ段階で笑えるだけじゃなくて、実際演ってみて面白いかが重要。
だって舞台でげっらげら笑った所が、文字だけだと笑えない。
そういうものなんだ。
書くとき気をつけよう。